他部署と連携してトラブルが解決できればよいが、もし連携をしたものの望むような成果が得られなかったら、誰が責任を負うのかという問題がある。他部署になすりつけるわけにはいかないので当然、言い出しっぺが負わねばならない。場合によっては「面倒な話に巻き込むな」とお叱りを受ける場合もあるのだ。
「責任」というのは、親方日の丸で定年退職まで安穏と暮らしたい役所の人間にとって、最も避けて通りたい2文字なのだ。
今回の小学4年生女児のアンケート問題に関しても、我々外野の人間からすれば、「そんなもん警察を呼んでガツンと対応しろ」とか「教育委員会にあげて対応を協議しろ」というのがパッと頭に浮かぶが、「役所」という閉鎖されたムラ社会に肩までどっぷり浸かった課長からすれば、なかなかそのような発想は出なかったはずだ。
親からのどう喝で、教育委員会が警察を動かすことは「大事件」である。警察だって猫の手を借りたいほど忙しい。そんな彼らを呼びつけるわけだから当然、そこには大きな「責任」が生じる。こうなる前に穏便に解決できなかったのか。今後もしこの親との対立が続いた場合、誰が対応をしていくのかなど、「大事件」にした張本人――つまり、担当課長は「戦犯」としてつるし上げられるのは目に見えている。
そんな袋小路に追い込まれた担当課長が、怒り狂う父に女児のコピーを差し出したのは、個人的には非常に納得感がある。
日本の学校教育の「現場」で起きるトラブルの多くは、「親と対立しない」「親の怒りを鎮める」ことで、事態の収束を図れることができるからだ。
つまり、今回の問題の本質は、担当課長の人間性うんぬんというよりも、役所で生きる人々の「連携を嫌い、問題を抱え込むセクショナリズム」にあるのだ。
「そんなのはお前の妄想だ、ウチの役所は他部署となんでも話し合っていつも連携して、セクショナリズムなんて感じたことがない!」と怒る公務員の方も大勢いらっしゃると思うが、今回の舞台となった野田市の過去を振り返るだけでも、役所という組織がセクショナリズムを克服できないことがよく分かる。
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