NHK大河「麒麟がくる」明智光秀の意外な“危機管理能力”と本能寺の変の真相――時代考証担当の研究者が迫るビジネスにも通じるリーダー論(5/5 ページ)

» 2020年03月15日 07時00分 公開
[小和田哲男ITmedia]
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戦国の下剋上は「危機管理のための“世直し”」

 「本能寺の変」が起こった理由は、もちろん1つではない。信長家臣団の中で、光秀が追い詰められていたという面も考えられる。

 武田攻めに光秀は大将としては加わっていない。特に働きはなく、おそらく恩賞ももらってはいない。一方、秀吉は中国攻めで、毛利氏を滅亡させる寸前まで追い詰めた。

 「本能寺の変」が起こった背景には、このまま信長が応援に向かい、秀吉とともに毛利を討てば、自分より秀吉のほうが上になると光秀が恐れた、という側面もあるだろう。

 また、四国の大名、長宗我部元親の問題も関係していると思われる。

 元親が信長に接近した際、橋渡し役をつとめたのは光秀であった。だが、せっかく信長との仲を取り持った長宗我部が、四国を席巻しそうになり、信長は長宗我部に対して「これ以上、国を広げるな」と待ったをかけたのである。

 光秀は、これで面目を失ってしまった。

 光秀が「本能寺の変」で信長を討った理由とは、このように、信長による悪しき政治に歯止めをかけるための、一種の「世直し」だったと思う。

「本能寺の変」は、下の者が思い切って上の者を倒す「下剋上」の1つの典型だった、と今では広く考えられているであろう。

 今でこそ「下剋上」は、社会の秩序を乱す、倫理にもとる、というイメージがあるかもしれない。だが戦国時代においては、下剋上は実は是認されていた。

 悪しき政治を倒し、世の中を良くできるなら、「下剋上」は必ずしも「悪」とは考えられていなかった。結果が良ければ「謀反人」として非難されることもなかったということである。

 ところが、後の江戸時代になると、儒教的な考え方が一般的になり、「武士は二君(じくん)にまみえず」といった倫理が主流になった。光秀を「主殺しの大悪人」だと考えるのは、江戸時代以降の感覚だと思われる。

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