柳下氏(当時社長)が寺泊に店舗をオープンした際に考えたのは、人口1万人程度の小さな町の商圏のみを当てにしていたのでは、商売が成り立たないということだ。車で20〜30分かけて、長岡や三条のような都市から来てもらうには、圧倒的に安くて鮮度の良い魚を、種類をそろえて、店頭に並べて販売しなければならない。
そこで、知己があった新潟、寺泊、出雲崎など県内の魚市場を駆け回り、毎朝とっておきの魚を仕入れて売った。実際に買いに来た顧客が、「寺泊に素晴らしい魚屋さんができた」と口コミで評判を広げてくれて、瞬く間に繁盛店に成長していった。評判が評判を呼んで、11月にオープンした25坪ほどの小さなお店に、年末には入り切れないほどの大量の人が訪れるようになった。4〜5年もすると、新潟県にとどまらず隣の長野県からの来客も増えた。さらに5年ほどすると関東からも顧客が押し寄せるようになった。寺泊には角上魚類に倣った十数店もの鮮魚店が軒を連ね、年間300万人を集客する県下第一の観光地と化した。
こうして80年代の寺泊は、日本海に面した国道402号線沿いの一角が、いつしか「魚のアメ横」(魚の市場通り)と称されるまで急速に発展した。
しかし、柳下氏は成功した歓びの半面、「頂点を極めたビジネスはやがて下り坂になる」と、恐れを感じていた。
不吉な予感は的中し、バブル崩壊後に寺泊観光は衰退し始めた。そのまま、寺泊に安住していたならば、現在の隆盛はなかっただろう。
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