コラム
» 2004年12月22日 17時15分 UPDATE

IBM PCの父「ドン・エストリッジ」を思う

IBM PCを生み出すという偉業を成し遂げ、飛行機事故で亡くなったフィリップ・“ドン”・エストリッジ氏。IBMがPC事業から撤退しても、彼のことは忘れずにおこう。(IDG)

[IDG Japan]
IDG

 IBMは先日、PC事業にさよならを告げると発表した(関連記事参照)。少し前からネタを暖めていた、フィリップ・“ドン”・エストリッジ氏――われわれにIBM PCをもたらした人物――に関するコラムを仕上げるにはちょうどいいタイミングのようだ。

 パーソナルコンピューティングの草分けといえば、多くの人は(ジョブズとウォズニアックの)「スティーブズ」とAppleを思い出すが、われわれのほとんどは「IBM互換パーソナルコンピュータ」と呼ばれるデバイスのおかげで今のキャリアがある。そしてIBM PCが存在するのは、ドン・エストリッジのおかげだ。

 なぜそのことを思い出したかというと、最近私の会社Tolly Groupが、フロリダ州ボカラトンへの移転を完了したからだ。新しいオフィスは、1980年代初めにPCが誕生したIBMボカラトン研究所だった場所の目と鼻の先なのだ。

 今はT-Rexと呼ばれるその場所(IBMはずいぶん前に撤退している)の通りの向こう側には、ドン・エストリッジ・ハイテクミドルスクールがある。私は毎日、子供を学校に連れて行くときにこの場所を通る。そしてハイテク業界の昔を回顧し、エストリッジ氏の名前を思い出したのだ。

 私は彼に会ったことはないが、彼がIBM副社長だったこと、初期のPCに「関わっていた」こと、そして悲しいことに、1985年にダラスの飛行機事故で亡くなったことはぼんやりと覚えている。しかしちょっと調べてみたところ、彼の成し遂げた偉業には畏敬の念を抱かされた。

 エストリッジ氏はわれわれにIBM PCをもたらした秘密プロジェクトを率いていた。チームメンバーは14人。誤字ではなく、本当に14人だった。もちろん、ゼロからの出発なので、収益基盤もゼロから始まった。

 彼が1985年に亡くなる前にPC部門(当時は「エントリーレベルシステム部門」と呼ばれていた)の指揮を降りたころには、同部門のスタッフは1万人になり、売上高は45億ドルに達していた。

 PCの登場前、IBMで(比較的高かったが)一番売れ筋のコンピュータは、2万5000台売れていたと言われている。エストリッジ氏のチームは、3年で25万台売れると予測していた。その予測は間違いで、1985年までに約100万台が売れた。

 彼とそのチームはこの仕事を全部IBMの内部で行った。私はIBMを大いに尊敬しているが、その時代に同社で働いていた、または同社と仕事で関係していた人(私は当時IBMの顧客だった)なら、彼の仕事がいかに難しいものであったか分かるだろう。

 従来、IBMのコンピュータはすべてIBMの部品を使って作られていたが、エストリッジ氏は既製の部品を使ってコストを下げることを選んだ。もしも今のPCがプロプライエタリな部品しか使っていなかったら――想像もつかない。

 最も重要なのは、彼がPCを「オープン」にして、ほかのメーカーがIBMと同じようにPCを組み立てられるよう、仕様に関する十分な情報を提供すると決めたことだ。もちろん、その結果生まれた普遍性は、Apple Computerが独自の品質と革新を実現しながらも決して持てなかったものだ。

 IBMは世界最大のソフト企業だったが、エストリッジ氏はオープン性を求めて「サードパーティ」のソフトを選択した。

 1982年のPC Magazine誌のインタビューで、彼は次のように話していた。

 「われわれは、MicrosoftのBASICを超える製品を作れるとは思わなかった。われわれはMicrosoftのBASIC、VisiCorpのVisiCalc、PeachtreeのPeachtreeソフトを超えなくてはならないかもしれない――それは不可能だ」

 ある伝記によれば、彼は1983年に、Appleが数百万ドルの報酬を提示して社長になってほしいと頼んだのを断ったという。

 IBMは一回りして元の場所に戻り、PC事業から撤退する。まず第一に同社を今の地位に導いた人物を忘れずにいよう。

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