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» 2006年12月08日 15時33分 UPDATE

1981年の“最新鋭” 小松左京の「テクノ書斎」とは

小松左京さんは1980年代から、コンピュータを駆使した「テクノ書斎」で仕事していたという。「『日本沈没』が書けたのも電卓のおかげ」

[岡田有花,ITmedia]

 「『日本沈没』が書けたのは電卓のおかげ」――東京ビッグサイトで12月8日まで開かれているNECのイベント「C&Cユーザーフォーラム」で、SF作家の小松左京さんとノンフィクション作家の山根一眞さんが対談した。小松さんは1970年代から最新コンピュータを創作活動に生かしており、最新機器をそろえた書斎は「テクノ書斎」と呼ばれるほどだった。

画像 左から山根一眞さん、小松左京さん、小松さんの秘書・乙部順子さん

 「『日本沈没』があんなに売れるとは思わず、悔しい思いをした」――小松さんは、今年映画としてリメイクされたベストセラーSF「日本沈没」を発表した1973年を振り返り、冗談めかしてこう語る。「当時は所得税率が高く、75%も税金で取られてしまったからね。今ならもっと低いのに」(小松さん)

 小松さんは、科学知識を駆使して物語を組み立ててきた。「日本沈没の取材時は、日本を沈めるためにはどれぐらいのエネルギーが必要か調べるため、知り合いの学者に『日本列島の目方はどれぐらい?』と聞いた。そろばんと計算尺と筆算で日本列島の平均質量と体積を出して――」(小松さん)

 当時最新コンピュータだった電卓が活躍した。当時の電卓は1けたあたり1万円という相場。13けたの電卓を13万円で購入し、活用したという。「あれでものすごく進みましたね。電卓のおかげで日本沈没がある」(小松さん)

1981年の「テクノ書斎」

 山根さんは1981年に雑誌の企画で小松さんを取材していた。当時の資料によると、小松さんの書斎は「テクノ書斎」と呼ばれるほど電子機器でいっぱい。当時は珍しかったコードレス電話やプリンタ、FAXなどがひしめいていた。

 小松さんは同年、ソード電算機のショールームも兼ねた事務所「エレクトロオフィス」を設立。「ソード M200」「同M23」といったパーソナルコンピュータをそなえていた。NEC、日立製作所、沖電気工業、リコーなど各社の最新コンピュータも保有していたという。

画像画像 1981年に「エレクトロオフィス」なを取材した番組の映像

 ただ実は、小松さんはPC操作が苦手。「パソコン使ってもデータ消しちゃったりしたから、コンピュータには『(小松左京)社長触るなって』書いてあったりした」(小松さん)。主に秘書の乙部順子さんが活用していたという。

 乙部さんはソードのプログラミング言語「PIPS」を利用していたと振り返る。「NECも日立も沖電気も機械は置いてあったがBASICでしか動かなかった。BASICは難しくて学ぶ暇もなかったが、PIPSは1時間で覚えられ、素人でも使えた」(乙部さん)

画像画像 小松さんの「テクノ書斎」を取材した「BOX」1981年11月号(左)と、ソードの広告

 山根さんは小松さんの先進性に感心する。「先生は電卓など原始的な機器であれだけのものを書いた。今は、当時と比べれば情報量も増え、計算能力も1億倍ぐらいになっている。だからといって『日本沈没』の100倍くらいおもしろいものが出てきているかというと、そうではない気がする」(山根さん)

マイクロカセットで「圧縮・解凍」?

 1980年代はプリンタやFAXも高価。プリンタは1台29万8000円、FAXは88万8600円したという。だが大阪を拠点にしていた小松さんにとってFAXは特に重要で、東京の出版社との原稿のやりとりに活躍した。

 小松さんは1980年代から「図書館の図書をデータベース化して電話でアクセスできるようにしてほしい」と語っていた。「ぼくは自宅がずっと大阪だったから、国会図書館の蔵書を調べるには東京に行かなくてはならず不便。どうしても必要だった」(小松さん)

画像 山根さん

 山根さんもFAXやコピーに関する苦労話を披露する。「1982年ごろアマゾン取材をしていた時、日本に原稿を送らなければならなくなった。FAXを探したが『なぜ電線に紙が入るのか』と誰も理解してくれない。仕方ないので日本人がよく泊まるホテルで待ち伏せ、日本人を見つけると帰国日程を聞き、近く帰国する人に原稿を託した。バックアップを取っておくにもコピーがないため、テープレコーダーに原稿を読んでコピー代わりにした」(山根さん)

 電話で原稿を送らねばならない際は、マイクロカセットに録音したものを電話口で2倍速で再生し、電話先の編集部で再録音してもらい、それをスロー再生して原稿に書き起こしてもらう――ということもしていたという。「音声の圧縮・解凍ですね」(山根さん)

原子力が原爆に――中学3年生での衝撃

 小松さんが中学校3年のころに太平洋戦争が始まる。「あれがなければSFは書いていなかった」と小松さんは振り返る。

 「戦前、小学4年生だった昭和14年、小学生新聞に載っていたSFで『原子力』を知った。原子爆弾で街が吹っ飛ぶという描写があったが、いくら何でも嘘だろうと思っていた。その6年後には日本に2発も原爆が落とされた。原爆があんなにひどいものだとは……」(小松さん)

 中学3年で本土決戦を経験し「おれたちは死んじゃうんだと思った」(小松さん)という。危機意識が体に刻み込まれ、それが「日本沈没」などSFの原点になった。

 「歴史の見方も考え直さなくてはならない。1902年にライト兄弟が人類初の飛行に成功し、1904年にドイツで特殊相対性理論が生まれた。その副産物としてE=mc2(原爆に関わりの深い理論)が生まれている。その40年後にB29が原爆を落とす。人類史はそういう風になっている」

 最後に小松さん山根さんに「今一番興味あることは何ですか?」とたずねた。山根さんが「量子力学や量子コンピュータ。量子コンピュータは日本が真っ先に実現してほしい」と答えると、小松さんは「人間はこんどは、量子爆弾というのを作るかもしれないね」と言って笑った。

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