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» 2012年08月16日 18時30分 UPDATE

夏休み集中連載:「メガネ男子」その3・レンズ効果

眼鏡を掛けている、ただそれだけでその人が社会との間になんらかのギャップを抱えているような雰囲気をもたらす。では眼鏡がメガネ男子のメンタリティを作るのだろうか。あさみさんによるメガネ男子論のその3。

[あさみ,ITmedia]

連載「メガネ男子」

あさみ

某業界の片隅でひっそりと書いている、いろいろと匙を投げた女子。メガネ男子研究をライフワークとする。5月の文学フリマにて同人サークル・久谷女子の有志と合同で同人誌「不機嫌メガネ男子論」を発表。Twitter:@adonis_fish


 眼鏡……めがね?

 漢字にせよ、ひらがなにせよ、同じ文字をずっと見ているといわゆるゲシュタルト崩壊を起こして「あれ……この字ってこんなんだっけ……」と感じる瞬間が訪れるというけれど、どうやら少し“眼鏡”を見つめすぎてしまったような気がする僕です。ご無沙汰しています。

 本コラムでは過去2回にわたって、われわれがメガネ男子の本質をどちらかといえばメガネ男子的なその心性、すなわち「心のメガネ」に見出していることを確認したうえで、「メガネ男子という存在に対して現物の眼鏡はなんらかの貢献をしうるか」という問題提起をさせていただいた。実は、これこそがメガネ男子研究者としての僕のメインフィールドである。途上の分野であり、必ずしも整理されていないが、メガネ男子研究の最前線をご紹介する意味で、今回はこの「メガネ男子と眼鏡の関係性」についてお話ししたい。

 くどいようだが、眼鏡とはレンズを使った視力矯正器具である。そのレンズは外から内だけでなく、内から外に向かう光も屈折させ、外からの視線に対して顔の各パーツのバランスを微妙に変化させる。と、考えられている。そう、「ふしぎの海のナディア」第15話のジャンである。どこか能天気なハカセくんキャラとして登場した彼に転機が訪れるこの回の冒頭、ジャンは作業中のトラブルでうっかり眼鏡を落とす。次のシーン、顔を上げた彼の目がふた回りは小さくなっていたことに衝撃を受けた人は少なくないだろう。

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 これを極端にしたのがあの「眼鏡を外すと/掛けるとイケメン」という古典的なネタなのだが、眼鏡の有無が顔そのものの見え方を変える、という感覚は非常に興味深い。「顔が変わる」ことは、容易に人格そのものの変化を連想させ、「眼鏡を外すと本性が現れる」という表現につながるからだ。そして眼鏡の着脱をトリガーとするイベントの発生は、ほんらいメガネ男子というキャラクターに備わっていたはずのある種の二面性が、眼鏡によってもたらされたものであるような錯覚を引き起こす。

 あるいは続く「ナディア」第16話。慕っていたフェイトが戦死し、埋葬に訪れた「沈める寺院」で、ジャンは父親が自らの船とともに敵ネオ・アトランティスに沈められ、もはや還らぬ人になっていることを悟る。葬送の列をそっと外れ、廃墟の中を彷徨うジャン。ふとこちらを向いたその顔は、眼鏡のレンズが光って表情をうかがうことはできない。なにげないシーンだが、ジャンがただの能天気な発明少年でなかったことを改めて思い知らされる。ここでの眼鏡は「心の窓」とも呼ばれる目を覆い、表情を隠し、メガネ男子の本質である(と見なされている)彼らの内面世界がわれわれからいかに遠いものであるかを印象づける。普段は存在を意識させない透明なレンズが、あるとき彼我を決定的に隔てる壁として立ち現れ、背筋をぞくりと冷たいものが這う。そして眼鏡こそが、そうした彼らの本質を覆い隠しているようにも思えてくる。

 もちろんこれらは基本的に創作物の“キャラクター”に用いられる表現であり、現実に眼鏡でそこまで顔が変わったり、反射でこちらから目が見えなくなったりすることはまずないだろう。ここで重要なのは、メガネ男子というキャラクターの持つ属性、設定のうち、二面性や仮面性の部分が眼鏡それ自体にも分与されているということ。簡単にいえば、眼鏡を掛けている、ただそれだけで(実際にどうかは別として)その人物が社会との間になんらかのギャップを抱えているような雰囲気をもたらす。いま自分が見ているものは、このひとのすべてではないかもしれない。そんな予感、あるいは期待が、彼らのほんらい持っているメガネ男子性をさらに強化する。反面、眼鏡の力に釣り合う内面を持ち合わせていない者は(別にメガネ男子を狙ってるわけではなくても)「似非メガネ」だの「シャレオツ」だの勝手に幻滅されて散々に罵倒される運命にあり、これはもうお気の毒というほかない。

本人にとっての眼鏡

 もうひとつ考慮すべきは、実在のメガネ男子において、眼鏡を掛けることがその人のほんらい持っているメガネ男子的心性になんらかの貢献をしうるのか、という点。

 主に2次元から3次元メガネへの敷衍に伴って発生する間接的な影響であれば、事は比較的簡単だ。眼鏡を掛けている男性に対するメガネ男子的なキャラクター、役割への期待が、(「おし、僕は今日からメガネ男子だ」と意識することがなくても)当の本人に多少の影響を与えうることは容易に想像できる。問題はもう少し直接的な、言ってしまえば眼鏡それ自体からの影響についてである。

 ここで想起されるのは穂村弘に先立つ(?)メガネ男子詩人・北園克衛について、春山行夫が評したこの文章だ。「彼(北園)がピョエメンで黒い眼鏡をかけてゐたといふことは、マックス・エルンストがパリの帽子店で煙草を吹かしていたことよりも以上に調和してゐる。ジェイムス(ジェイムズ)・ジョイスの眼疾が彼のスタイルを一層正確にするやうに、北園克衛の医学は彼の伝説を一層曖昧にする」(北園克衛『白のアルバム』序文、カッコ内は筆者)。北園は“「意味によって詩を作らない」で、「詩によって意味を形成」する”と宣言し、数々の実験的な詩を編んだ(他にも全然違うスタイルの詩を作ったり写真を撮ったりデザインしたりいろいろやっている)が、春山にいわせれば、その北園を最も端的に象徴するのが眼鏡だという。で、正直ここからは飛躍があるのだが、それなら北園という人物を形成したのが眼鏡であるということができたりはしないのかな、ということを最近は考えている。北園自身、詩論において「十九世紀なら知らず、今では物質が人間を洗練する」(「若きオリヤンの理論」)と書いている。

 もちろん、眼鏡だけが全てではないけれど、眼鏡によって育てられる部分は、確かにあるのではないか。それを突き止めることで、キャラクターとしてのメガネ男子の形成についても、さらに見えてくるものがあるのではないか。そんな観測のもとに日々研究に励んでいる次第です。

 そんなわけで僕はかたちから入ることをそれほど否定しないというか、世のメガネ男子萌えの中でも比較的珍しい伊達眼鏡容認派を貫いております。伊達眼鏡といえばシャレオツの代名詞のように扱われているけれど、実は両者はまったく別モノである、というのが僕の考え。じゃあ、どこがどう違うのか?次回、「伊達とシャレオツ」乞うご期待!

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