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検索エンジンが「ユーザーのその日の気分」を知る方法(中)ネットベンチャー3.0【第11回】(1/2 ページ)

» 2006年10月06日 12時00分 公開
[佐々木俊尚,ITmedia]

「はてブ」に見るソーシャルブックマークの限界

 連載の前回で、「外界からの影響や、本人の内なる精神的志向などをパラメーター化し、情報収集の精度を上げる方法はないのだろうか?」と書いた。

 この「外界からの影響」というのは、つまりはWeb2.0の用語で言えば「ソーシャル」にほかならない。「はてなブックマーク」「digg」などのソーシャルブックマークが、その代表的な存在だ。その人が属しているコミュニティーや人間関係などを考慮していくことによって、集合知の精度を高めていこうという考え方である。

 だがこのソーシャルをパーソナライズ情報収集に応用しようと考えた場合、ひとつの問題が生じる。つまりソーシャル――社会とは、いったいどのような社会を指しているのかということである。あるひとりの個人が参加しているコミュニティーを考えてみよう。最小の単位はおそらく家族で、そこから友人、近所の人、会社の同僚、趣味を同じくする人と多元的に円環は広がっていき、さらに住んでいる自治体や仕事をしている業界、同じ世代、そして同じ性別、あるいは同じ民族へとどんどんコミュニティは外に広がっていく。そしてそうやって広がっていけば広がっていくほど、コミュニティーに対する帰属意識は薄れ、そのコミュニティーと個人との相関関係も薄まっていく。それはごく当たり前のことで、家族や友人からであれば情報収集に影響は受けやすい。けれどもただ単に「男である」「日本人である」というだけで、世界の男性全体の情報収集傾向や、日本人全体の情報収集傾向からは影響は受けるというケースは少ない。

 コミュニティーが拡大すればするほど、<個人−コミュニティー>の相関関係が乏しくなっていくというのは、実のところWeb2.0のソーシャルーにとってかなり大きな問題になりつつある。たとえば「はてブ衆愚論」という問題が、そのひとつだ。fladdict.net blogの8月19日のエントリー『はてぶがドンドン馬鹿になっていく』には、こう書かれている。

はてなブックマークが物凄い勢いで衆愚化していっている。

別にGigazineが悪いわけではまったくないけれど、Gigazineのエントリーが頻出するようになったあたりから、どんどんエントリーの質が下がってきている。もう最近あまりホッテントリも読まなくなった。

新しいこと画期的な概念、難解な議論は、とくに吟味もされずにスルーされて、まとめサイトや実務系tipsのような単なる再生産なのだけど実務での使用に耐える、そんなんばかりが増えていく。

結局ユーザー参加型コンテンツがたどり着くところはココなのか?

 さらにこのエントリーの追記にはこうある。

自分的にはWEB2.0ってのは、「玉と石」を振り分けるシステムを含めてWEB2.0なのだとばかり思ってた。

選別なしに、コンテンツの創作や露出の敷居だけを下げていったさきに何があるのか。

それは単にコンテンツの母数が際限なく膨張することと、相対的に上質なコンテンツの数が減少することに過ぎないんじゃないの?

 はてなブックマークは当初、技術者を中心にしたネット業界の人たちによって利用された。だがはてなの知名度が上がり、それに応じてはてなブックマークの人気が高まっていったのに従って、利用者も増えていく。ブックマークを行う母集団が大きくなっていったのだ。この母集団の増加は、果たして集合知をより良くすることに役立つのか、それとも衆愚化してしまうのか?――という疑問は、いまやWeb2.0の世界の最もホット、かつ重要なテーマになりつつあるように思われる。たとえば松永英明さんは『備忘録ことのはインフォーマル』の『Web2.0の背景にある考え方。』という9月28日のエントリーで、次のように書いている。

集合知は、多数決の原理であり、いわゆる民主主義的、あるいは大衆礼賛であるが、衆愚に陥る可能性もあり、また、真実は多数決では決まらないことを忘れる危険を伴う(天動説の時代には天動説が多数意見となる)。したがって、真実かどうかはどうでもよく、ただ多数の趣味嗜好がわかれば十分なもの(たとえば、流行)についてはWeb2.0は有益であり、逆に真実を探るにはWeb2.0は不十分である。

 つまりマーケティングや意志決定など、何らかの社会の傾向を調べたり、あるいは多数決による世論などを定めるのには集合知は有効だけれども、しかし真実を探求する方法としては集合知は誤ってしまう可能性があるということだ。たとえば17世紀のヨーロッパでは、ほとんどの人が天動説を信じていて、ガリレオの地動説はまともに取り合われなかった。この時代に地動説をみんなで議論していれば、その集合知の結果は間違いなく天動説に傾いていたはずだ。このあたりについては、BigBangさんが『月も見えない夜に。』の『ガリレオブログに起きたこと----1633年の大炎上』という非常に面白いエントリーで、わかりやすく象徴的に描いている。

 結局のところ、はてなブックマークが持っていた価値というのは、「ネット業界の狭い世界の中の人たちがブックマークしていた」ということだったように思える。つまりは一般のネットユーザーとは異なる狭いコミュニティーの中から集合知を生み出していたわけで、だからこそ一般のニュースサイトは異なる貴重なブックマークを抽出できたのだ。だから、はてなブックマークのユーザーが増えて母集団が増えて大衆化していくと、一般ニュースサイトと同じようなブックマークが抽出されるようになるのは、当然の帰結である。言い換えれば、はてなブックマークがロングテールからショートヘッドへと転換してしまったということなのだ。

 松永さんが提起している「集合知が真実を生み出せるかどうか」という重要な問題についてはまた別の機会に考えてみたいが、しかし<集合知=ソーシャル>から自分の必要な情報を得るという仕組みに限って考えてみると、その集合知の母集団がどのようなものかがかなり重要なテーマなのである。つまりはコミュニティーへの帰属の問題なのだ。

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