実を言うと、わたしは大学院に入るまで自分のPCを持っていなかった。せいぜい論文を書くために大学のPCを使ったくらいのものだ。
子供のころにお隣のApple IIを使えるだけ使っていたが、このマシンは「ウルティマ」や「The Prisoner」など、Apple Computerの最初の全盛期に開花したゲームをプレイするための専用機と化していた。
従ってわたしとしては、Apple IIがPC革命の口火を切ったとは個人的には言えない。だが、もちろんほかの人にとっては、そしておそらくこの30年もの間、Apple IIは新世界をもたらしてきたに違いない。
Apple IIが最初に出荷されたのは1977年6月だが、デビューは同年4月の16日と17日、サンフランシスコで開催された第1回West Coast Computer Faireでのことだと、ポール・クンケル氏の1997年の著書「アップルデザイン」に記されている。
DigiBarn Computer Museumの館長、ブルース・ダマール氏は次のように回想する。「スティーブ・ジョブズ氏は、正面入り口右側といういい位置のブースを買った」。この戦略は当たった。クンケル氏の著書によると「初日の終わりには」、Apple創業者のスティーブ・ウォズニアック氏とスティーブ・ジョブズ氏がApple II用プラスチックケースの製造を依頼した会社の生産能力を超えるほどの注文が舞い込んだ。
1298ドルという、1977年当時としては法外な価格にもかかわらず、月間売り上げはすぐに8万4000ドルに達し、たった2人しかいない会社だというのに年間売り上げはほぼ100万ドルとなった。
「Apple IIの重要性には2つのレベルがある。ウォズレベルとスティーブ・ジョブズレベルだ」と言うのは、昔のコンピュータ、ドキュメント、ソフトウェアに関する記録を集めているVintageTechの経営者、セラム・イスマイル氏だ(「わたしが最初にApple IIを使ったのは1982年、いとこの家でだった。自分のApple IIは1984年、13歳のときに手に入れた」とイスマイル氏)。
“ウォズ的解釈”では「好奇心旺盛でやる気にあふれた人のためのマシンの拡張性が重要だった」とイスマイル氏。同氏によると、Apple IIはROMにシステムモニタリングユーティリティが組み込まれており、ユーザーはアセンブリ言語でもマシン語でもプログラムできたり、デバッグしながらコードの逆アセンブルができたりした。
その上Apple IIのシステムマニュアルは非常に網羅的で詳しかったので、独学でコンピュータのハードウェアとソフトウェアのエンジニアリングについてかなり学ぶことができたし、実際イスマイル氏はそうしたと同氏は語る。
「TRS-80やCommodoreのPETなどといった当時のほかのコンシューマー向けコンピュータもいいものだったが、Apple IIのオープン性には及ばなかった」(イスマイル氏)
「Apple IIはパーソナルコンピュータだったが、ハッカー向けコンピュータでもあった」とイスマイル氏は言う。Apple IIに装備されたジョイスティック用のポートは汎用入出力ポートとして使えるように設計されていたので、この家庭用コンピュータをプリンタやネットワークにつないだり、研究室の計測器からデータを取り込んだり、外付けのモーターを制御することまでできたと同氏は言う。
一方、“スティーブ・ジョブズの視点”から見たApple IIのインパクトは、コンシューマーに向けて考えられた「見せ方」にあった、とイスマイル氏は言う。「筐体は魅力的だった。全部そろっていて、すぐにでも使えるようになっていた」
ダマール氏も同意する。「Apple IIは、個人でもコンピュータを家電製品のように所有できることを示していた。強力だがフレンドリーで、良質なキーボードとカラーグラフィックス表示を提供してくれた」
「Apple IIのすごいところは、当時のほかのコンピュータは、1920年代に自家用車を持つようなもので、自分で整備方法を知っている必要があったが、Apple IIは本当に家電製品のようだった」とダマール氏。
偶然そうなったわけではなく、純粋なエンジニアリング作業の帰結としてそうなったわけでもない。
ジョブズ氏はApple IIで、手作りの木のケースと「冷たくて非人間的な」IBMのブラックメタルやDECの「鉄のかたまり」との間に位置する外観――「つややか」で「面取りされた」当時のHP電卓のコンピュータ版――を求めていたとクンケル氏は書いている。
実際、ジョブズ氏が夢中になった設計に関する議論は、Apple IIをもっと家電的にしたいというものだった。同氏は拡張スロットを付けるのはハッカー的で“エレガントではない”と言って反対した。ウォズ自身は拡張スロットが必要だと思っていたので、2人はスロット8つで妥協した。
「これが分岐点だった」とイスマイル氏は言う。「この時からコンピュータは消費者向け家電になろうとし始めた。Apple IIは、Altair 880などのそれまで世に出ていたコンピュータから躍進した」
それでも、発売1年でおよそ100万台しか出荷されなかったApple IIは、まだユーザーのクリティカルマスを獲得していなかった。だが、シンプルな周辺機器――主にウォズによるエレガントで気の利いた設計によるところが大きい――の追加によって、売り上げが爆発した。
「1978年にAppleがフロッピーディスクドライブを出荷したときからApple IIは本格的に売れ始めた」とダマール氏。同氏によると、それまでのデータ保存用オプション(テープドライブ)は遅く、信頼性に欠け、使いにくかった。PCのように高額商品がこのような状態にあることは「多くの人をうんざりさせていた」と同氏は言う。
「初期のMacintoshが、レーザープリンタの登場まで高価なおもちゃだと見なされていたのと同じだ。(BASICやアプリケーションやゲームを速く確実にロードしたり保存したりできるようにした)フロッピードライブがすべての始まりだった」(ダマール氏)
クンケル氏も同じ結論だ。同氏は、売り上げは1978年には790万ドルに、1979年には4900万ドルに上り、Apple IIは「それまでで最も売れ行きのいいパーソナルコンピュータ」となったことを付け加えた。
クンケル氏によると、ジョブズ氏はApple IIのターゲット市場をもう1つ考えていたという。「Apple IIは、ハード好きではなく、ソフトウェア中毒者――キラーアプリを考案し、Apple IIを所有する意義をさらに強めてくれる人――に向けられていた」と同氏は書いている。“キラーアプリ”はジョブズ氏が考えついたアイデアではないし、その後も使われている――MacintoshにおけるPageMakerやMicrosoftのXboxにおけるHaloのように。
Apple IIの場合、キラーアプリはVisiCalcだった。これは、パーソナルコンピュータ用の最初のスプレッドシートだ。このソフトのおかげで、一般ユーザーや中小企業は電子的に収入と支出を記録できるようになり、フロッピーディスクドライブによってそうしたデータを保管・転送できるようになった。これは、ダマール氏やイスマイル氏のようにマシンをいじるのが好きなわけではない人にとって、Apple IIを購入する明確な動機付けになった。
とはいえ、いじり回すことはApple IIの重要な使い道だ。
ダマール氏は、自分の“初恋”(少なくともコンピューティングに関しての)の相手はDEC PDP-11だが、大学のルームメイトのApple IIでプログラミングするのが大好きだったと言う。イスマイル氏も「Apple IIがわたしをプログラマーへの道に進ませた」と語った。
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