「そちらの彼女が、1時間ぐらい前に弊社に来まして、マイラインの営業をやってます、話だけでも聞いてくださいって、受け付けとやりあってるところにたまたま通りかかったんです。ぼくは設備担当なんだが、マイラインなら間に合ってるからって断ろうと思ってね。そしたら彼女、目が真っ赤なんですよ。タダごとじゃないと思ってね、とりあえず話だけでも聞くからって、ここの部屋が空いてたんで話を始めたんです。そしたら、涙をこぼしながら、もう20社も断られたんです。話を聞いてくれるだけでもうれしい。本当にありがとうございますって」
和人は、ずっとハンカチで目の辺りを押さえている。
「資料はすごく分かりやすいんですよ。ところが肝心なところは書いてない」
和人が持たせた資料だった。ほとんどが絵である。資料に全部書いてあると、相手は読んでしまって終わり。話を聞いてくれない。肝心なところは口で説明しなさい。そう言って渡した資料だった。
「質問したんだけど、日本語が苦手みたいで要領を得ない。こちらも技術の分かる社員を呼んできたんだけど、なかなか進まない。でも、必死なのは伝わるんです。ぼくらもなんとかしてあげたくなってね。で、名刺の電話番号にかけたってわけです」
和人は礼を言い、クオーターとバトンタッチした。クオーターは必死にこらえていたのだろう、声は押し殺しているが、涙が止まらなくなっている。和人も涙が止まらなくなりそうだったが、クオーターの様子を見て、冷静さを取り戻すことができた。
幸い椿森電器はこれまで、必要のないオプションなども契約していた。ざっと試算しただけでも和人たちのプランであれば半額程度になることが分かった。飯田はそれを聞いて大喜びだった。
「ちょうど社長から、経費削減案を出せといわれていたところなんです。これならすぐに決裁が通りますよ」
「本当ですか。では、戻り次第正確な見積をお出しします。もし今月中に契約書を交わしていただけるなら、所長権限でさらにお値引きしますよ」
「たぶん可能です。私と社長の判子だけですから。よろしくお願いします」
椿森電器の契約回線数は100とちょっと。この時点で、C市営業所の存続は決定した。
椿森電器を出ると、和人はもう1人の事務員であるチェッカーに電話をして、見積書を作成するように指示した。書類のチェックが、ものすごく速くて正確なので、このあだ名がついた女性である。書類を作るのも、ものすごく速くて正確だ。
チェッカーに任せておけば安心だ。和人は、クオーターをねぎらうために最寄り駅近くの喫茶店に寄った。
「クオーター。よくやったね。君のおかげで……」。そこまで言って、和人は口をつぐんだ。営業所の存続の話は営業部員にはしていない。変なプレッシャーをかけてはいけないという配慮からだった。
「これで、来月も所長さんと働けますか?」
「え? どうしてそれを?」
品の良い喫茶店だった。モーツアルトの交響曲第41番、通称ジュピターの第4楽章が、耳障りにならない程度のボリュームで流れていた。和人は今でもこの楽章を聴くと勇気が出てくる。クオーターは、和人が今でも、いや一生忘れられない話を、語り始めた。
連載「奇跡の無名人たち」の元になった話があります。それが、ぼくのビジネスパートナーである吉見範一氏から聞いた話なのです。この“法人営業の達人”である吉見氏によるセミナーを、以下の日程で開催します。ご興味ある方はぜひご来場ください。
筆者の森川“突破口”滋之です。普段はIT関連の書籍や記事の執筆と、IT関係者を元気にするためのセミナーをやっています。
Biz.IDの読者には、管理や部下育成といったことや、営業など専門知識以外のビジネススキルに関することなどに関心を持ち始める年代の方が多いと聞いております。
そういう方々に役に立つ話として、実話をベースにした物語を連載することになりました。元ネタはありますが、あくまでもフィクションであり、実在の団体・人物とは関係ありません。
今回の物語は、ぼくのビジネスパートナーである吉見範一さんから聞いた話を元にしたものです。ある営業所の若い女性が起こした小さな奇跡について書きます。営業経験がなく、日本語が達者じゃないのに法人営業に成功した話が始まります――。
大学では日本中世史を専攻するが、これからはITの時代だと思い1987年大手システムインテグレーターに就職する。16年間で20以上のプロジェクトのリーダー及びマネージャーを歴任。営業企画部門を経て転職し、プロジェクトマネジメントツールのコンサル営業を経験。2005年にコンサルタントとして独立。2008年に株式会社ITブレークスルーを設立し、IT関係者を元気にするためのセミナーの自主開催など、IT人材の育成に取り組んでいる。
2008年3月に技術評論社から『SEのための価値ある「仕事の設計」学』、7月には翔泳社から『ITの専門知識を素人に教える技』(共著)を上梓。冬には技術評論社から3冊目の書籍を発売する予定。
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