串カツ田中の前身であるノートという会社は、トヨタに勤めていた貫氏が1998年に27歳で脱サラして、大阪・心斎橋にショットバーを開業したのが始まりだ。その店が軌道に乗り、大阪・堀江にデザイナーズレストランをオープン。さらには東京に進出して青山に京懐石をオープンさせており、もともとは1等地でおしゃれな店を展開していた。住宅街で3等立地の大衆酒場とは縁遠い雰囲気だった。
しかし、リーマンショックによって売り上げが激減し、方向転換を余儀なくされた。
串カツ田中の味(ソース含む)は、田中洋江副社長の串かつ好きだった父、故・勇吉氏が残したレシピが偶然発見されて、それがもとになっているとされる。父の遺志(飲食店を経営していたのではないようだが)を娘が継いだという、浪花節的人情ストーリーとなっているのが、串カツ田中がヒットした伏線になっている。人気漫画「じゃりン子チエ」を思い起こさせ、昭和への郷愁をかき立てられる。
ところで、串カツ田中は「大阪・西成の味」と宣伝しているが、筆者が大阪市西成区の中心地である天下茶屋と玉出でフィールドワークしたところ、商店街で串かつ屋を見つけられなかった。たこ焼き、お好み焼き、うどんなど、コナモンの店が目立っていた。
商店街の人に「西成が串かつの本場と東京で聞いたのだが、有名店を教えてくれ」と聞くと、怪訝(けげん)な顔をされ「串かつが食べたければ、この辺にはないから新世界に行け」とアドバイスをされた。新世界は西成区に隣接しているが、浪速区という別の区である。
さらには、「串かつを家でつくって食べるのか」と尋ねると、「材料をそろえるのも大変。そんなめんどくさいことするわけない。子どもの頃から家で食べたこともない。たまにスーパーで買って食べる程度だ」と高齢者からも一笑に付されたのである。
西成の繁華街である天下茶屋や玉出では、串かつは昔から流行っていなかった。西成は広く、串かつ屋が皆無ではないので、串かつをソウルフードとするエリアが一部に広がっている可能性も残されている。
筆者は関西で生まれ育ったが、子どもの頃、大阪のキタやミナミに何度も行ったことがある。しかし、街角で串かつの店を見たことがなかった。新世界にはあるとうわさには聞いていたが、酒飲みが行くディープなところで、子どもが立ち入る場所ではなかった。梅田や新大阪にある1949年創業の老舗「串かつ松葉」は、大人になってから知った。揚げ置きスタイルの立ち飲み店で、まさにサクっとちょい飲み感覚で食べて飲んで、20分くらいで出る雰囲気。子ども連れで行く人はいない。
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