#SHIFT

ゴーンという「怪物」を生んだのは誰か 日産“権力闘争史”から斬るゴーン報道の「第一人者」が語る【前編】(1/2 ページ)

» 2019年04月10日 08時00分 公開

 日産自動車のカルロス・ゴーン前会長を巡る一連の事件が日夜、報道されている。4月4日には中東の日産販売代理店に送金した日産の資金を自らに還流させ、同社に損害を与えた会社法違反(特別背任容疑)の疑いで、東京地検特捜部が4度目の逮捕に踏み切った。8日には日産が臨時株主総会を開き、ゴーン前会長らを取締役から解任する人事案を可決。ゴーン前会長の弁護団は、彼が無実を主張する動画を9日に公開するなど、応酬が続いている。

photo カルロス・ゴーンという「怪物」を生んだのは誰か?(2016年10月撮影)

 本事件の行方や真相に注目が集まる一方で、意外と着目されてこなかったのが、そもそも「ゴーンという人物は結局、日本の企業社会において何者だったのか」という問いだ。わが国を代表する企業を救った“英雄”としてたたえられた人物は一転、今や会社を思うがままに支配した“怪物”のように報じられている。

 果たして今回の事件は、“異邦人”であるゴーン前会長個人の才能や人格に起因するものなのか。それとも、こうした存在を生み出す土壌がそもそも日産にあったのか。

 『日産vs.ゴーン 支配と暗闘の20年』(文藝春秋社)を2月に上梓したジャーナリスト・井上久男氏は、朝日新聞の記者だった1999年、「日産・ルノー提携」をスクープし、独立後も長きにわたって日産とゴーン前会長を追い続けてきた。井上氏は同書の中で、日産という企業の成り立ちや権力闘争史をひもとくことによって、ゴーン前会長が日産を救い、そして独裁に至った背景を丹念に描いている。ゴーン・日産報道の「第一人者」に、“怪物”が生まれた真の要因について直撃した。

photo 井上久男(いのうえ・ひさお)1964年生まれ。88年九州大卒。朝日新聞社の名古屋、東京、大阪の経済部で主に自動車と電機を担当。2004年朝日新聞社を選択定年。05年大阪市立大学修士課程(ベンチャー論)修了。主な著書は『トヨタ愚直なる人づくり』(ダイヤモンド社)、『メイドインジャパン驕りの代償』(NHK出版)、『会社に頼らないで一生働き続ける技術』(プレジデント社)、『自動車会社が消える日』(文藝春秋社)。カルロス・ゴーン氏の功罪を振り返りながら今回の事件の背景と本質に迫った企業ノンフィクション『日産vs.ゴーン 支配と暗闘の20年』(文藝春秋社)

独裁と抗争の“権力闘争史”

――井上さんは朝日新聞の経済部記者時代から今に至るまで、長く日産とゴーン前会長に向き合い取材を続けてきました。『日産vs.ゴーン 支配と暗闘の20年』では事件を読み解くだけでなく、日産という会社の成り立ちについても明治期にまでさかのぼり、日産の構造的な問題に踏み込んで検証しています。実は日産ではゴーン前会長の登場前から社内で派閥抗争が繰り広げられ、サラリーマン社長の独裁者に周囲がおもねる構図が繰り返されてきたという指摘は衝撃的で、創業者一族が経営に関わってきたトヨタ自動車とは対照的です。なぜ日産では社内抗争が起きやすかったのでしょうか。

井上: 率直に言うと、日産は「都会のエリート」が集まる会社でした。今はそれほどではありませんが、理系も文系も東京大学卒が多く(当時、東大合格者を多く輩出していた)東京都立の日比谷高校や戸山高校、神奈川県立湘南高校の卒業生に「(社内で)石を投げれば当たる」と言われていました。東大卒であることは当たり前で、高校閥で争っていたんですね。役員にも日比谷・戸山高の出身者が多かったのです。

 非常にクレバーでスマートだが計算高く、自分に損か得かでしか判断しない人が、トヨタに比べると多かったと思います。トヨタも今では変わりましたが、かつては地方の国立大卒が多かった。そういう人たちを(入社後)鍛えていく会社だったとも言えます。

 でも、日産は入社した時点でいわば(その人の人生にとって)“頂点”なのです。自分の哲学などは殺して、出世のために権力者にゴマをすっていく「超サラリーマン」のようなイメージの人が多かった。

――本書でも社長在任時に自身の銅像を作らせた川又克二氏(日本興業銀行からの転籍)、強引なグローバル戦略を進めた石原俊氏、第二労組のトップという立場で権力を掌握した塩路一郎氏と、独裁の系譜と抗争のドラマが描かれています。

井上: 塩路氏や石原氏の支配下は、「車やモノ作りが好きかどうか」より、いかに権力者に食い込めるかという世界でした。「超サラリーマン」のような人が集まった会社で、権力者が出ても(社員が)刺し違えたり「あなた(のやり方は)おかしいですよ」と言ったりせず、自分の損得のため従ってしまう。

 日産は日本を代表する企業です。社会的な信用もあり、金を湯水のように使えました。しかし99年ごろまでには、気が付いたら経営危機に陥っていました。

――石原氏による米国を初めとしたグローバル戦略といった失敗が続いた上、それまで融資してくれていた日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)が、山一證券などの倒産を目の当たりにして、自社の経営に注力しなければならなくなり、日産どころではなくなったのですね。結局、当時の塙義一社長が外資からの資本受け入れを決断し、最終的に提携を受け入れたルノーが再建のために日産へ送り込んだのがゴーン前会長でした。

井上: ゴーン前会長がやったこととは、モノづくりや販売の面で続いていた権力闘争や足の引っ張り合いのリセットでした。

 また、日産では取引先との関係が健全ではありませんでした。例えば自動車というものは2〜3万点の部品で作られていて、サプライヤーの企業から購入しています。日産では(社員の)天下り先がそういった会社でした。本社の購買部門の担当者とは後輩や先輩の関係なので、高額な部品を「なあなあ」の関係で購入していました。

 一方、トヨタは違っていました。もちろん(サプライヤーである)グループ企業に本社の社員が役員や部長として移ったりもしますが、あくまで厳しいマネジメントを敷いています。部品メーカーに対して「生かさぬよう殺さぬよう」鍛え上げることで、トヨタ本体と同様に筋肉質な企業にしていったのです。

 そうでなかった日産にメスを入れたのがゴーン前会長でした。私はその判断については間違っていなかったと思う。多くの人が(ゴーン体制下で)リストラされましたが、日産本体を含めてこのように“外科手術”をしなくては、全部が沈没していたでしょう。

photo 日産ではゴーン前会長の登場前から「派閥抗争」が繰り広げられてきた(写真提供:ゲッティイメージズ)

「独裁者」となる転機

――ルノーとの提携直後に日産を再生させた手腕については、やはり評価しているのですね。

井上: 日産で当時、開発コストに加えて特に課題だったのが過剰な設備です。自動車メーカーは設備投資額が大きいだけに、動いていない設備や人員を持つと一気に赤字になる。日産は人を切って工場を閉鎖するという「痛みを伴う改革」をしないと、沈没する状態でした。

 (日産・ルノー提携時の)塙社長を初めとした日本人幹部も、こうした問題の根幹は分かっていたと思います。しかし彼らにはしがらみがあった。実はゴーン前会長はあらゆる局面でこうした“使われ方”をされてきた人物でした。(やはり再建で活躍した)ルノーもいわば往年の(日本の)国鉄のような状態で、危機感がありませんでした。リストラが必要だったため、彼が連れてこられたのです。

――その後、「独裁者」となる転機は何だったのでしょうか。

井上: 2005年までの彼の経営者としての実績は優れていたと思います。いわば「救急救命医」として高い能力を持っていました。だから04〜05年ごろに辞めてビッグ3(ゼネラルモーターズなど米自動車メーカー上位3社)のどこかにでも移れば、かつてのマッカーサーのように(離日後も日本で)尊敬される存在になっていたかもしれない。

 西川広人社長も言っていましたが、(05年に)ルノーのCEOにも就任して権力が「一極集中」しました。かつては現場に足しげく通い、社員の言うことにも耳を傾けていた。しかし、ルノーCEO就任後は1カ月のうち日本にいるのは1週間くらいになり、社内にゴーン前会長の目が行き届かなくなりました。

 しかも日産はリストラが終わり、いわば「集中治療室から出た普通の体」になりました。健康な体になってサプリや漢方薬を飲み、継続的な成長を続けるべき時になってもゴーン前会長はリストラを続けました。彼の経営手腕と日産の状態がマッチしなくなってきたのです。

 製品開発にお金を掛けたり、値引きしなくても顧客が欲しがる車を作ったりする点については、彼はあまり得意ではありませんでした。しかし05年に両社のトップになることで誰も文句が言えなくなった。そして07年に日産はゴーンの社長就任以来、初の減益になりました。コスト削減をし過ぎたことで現場が疲弊し、やり方を変えなくてはいけなくなっていたのに、です。社内でも「ゴーン流経営の限界」がささやかれていました。

 ただ08年のリーマンショックでトヨタやホンダが大きく落ち込む中、日産はリカバリーが早かった。車種やコストの削減など、ゴーン前会長が大胆に決断したのです。11年の東日本大震災時も、多くのメーカーのサプライチェーンが断絶しましたが、12年3月期決算ではトヨタとホンダが減収減益だった一方、日産は増収増益でした。即座に判断できる「救急救命医的な能力」はやはり優れているのです。

 しかし、リストラとコスト削減中心の施策の「化けの皮」は既にはがれていました。リーマンショックと震災でゴーン前会長が能力を発揮してしまい、(それまでの失点が)塗りつぶされてしまった。

 その後、13年の中間決算では他社が震災から復活していたのに、やはり日産だけが減益になりました。新興国やEV(電気自動車)に投資し過ぎたゴーン前会長の経営ミスだと思います。ゴーン前会長は責任を問われるべきだったのに、その責任を部下(当時の志賀俊之・最高執行責任者)に押し付けました。ゴーン経営は「変質」してしまった。

       1|2 次のページへ

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.