3年経ってもふっくら! 「奇跡のパンの缶詰」の意外な行き先大手運輸会社と連携(1/4 ページ)

» 2019年07月05日 08時00分 公開
[菅聖子ITmedia]
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 災害に備えた非常食のバリエーションは年々豊かになり、味や好みでさまざまな商品を選べる時代になっている。だが、昭和のころは非常食といえば専ら乾パンで、そのことに疑問を挟む余地などなかったように思う。平成のはじめ、その市場に風穴を開けたのが「パンの缶詰」だ。

phot パンの缶詰を食べるタジキスタンの少女(写真はパン・アキモト提供)

開発のきっかけは阪神淡路大震災

phot アキモトのパンの缶詰

 パンの缶詰は、1995年の阪神・淡路大震災をきっかけに誕生した。開発したのは、ごく普通の町のパン屋だったパン・アキモトの社長、秋元義彦さんである。

 あの震災が起きたとき、栃木県那須塩原市のパン・アキモトでは2000個のパンを焼いてトラックに乗せ、神戸へと送り出した。無事に到着したものの、混乱の続く避難所で半分以上が捨てられてしまうという苦い経験をした。保存料などを一切使わない安心安全なパンだからこそ、劣化は早かった。秋元さんは言う。

 「被災した人に食べてもらうために作り、さまざまな人の力を借りて神戸まで届けたので、捨てられたことには悔しさが残りましたね」

 とはいえパン屋の日常は忙しい。すぐに何か行動しようという気持ちが芽生えたわけではなかった。しばらくして、神戸の知人から連絡が入る。

 「君が送ってくれたパンのようにやわらかくて、保存もできるパンを作ってくれないかな。乾パンは、お年寄りや子どもには堅すぎるんだよ」

 電話を受けた秋元さんは、それは無理だと断ろうとしたが、被災した知人の思いを聞くうちに考えが変わっていく。

 「日本人は豊かに贅沢(ぜいたく)になったのに、非常食だけが変わっていない。被災した人だっておいしいものが食べたいんだよ」

 秋元さんの心には、自分たちが作ったパンが避難所で捨てられてしまったことも、澱(おり)のように残っていた。その日から、保存できるやわらかなパンを作ることは彼のミッションとなった。

 パン工房の片隅で、日々の仕事の合間に開発が始まる。

 最初に試みたのは、真空パックだった。焼き上がったパンをビニール袋に入れて専用の機械で空気を抜く。パンはみるみるしぼんでいき、袋を開けても元には戻らなかった。失敗である。

 次に試みたのが缶詰だった。しかし、これも順調に進んだわけではない。缶詰の機械を借り、まずは焼いたパンを入れてふたをした。1週間後に缶を開くとカビだらけ。缶の中に雑菌が入ってしまったのだ。

 次は缶に生地を直接入れて焼いてみた。これなら缶の中まで一緒に殺菌できる。だが、缶の中に生地がくっついて、またもや失敗。今度は、缶にベーキングシートを入れて焼いたが、滑って抜けるためうまくいかない。秋元さんは、さまざまな紙で焼いては失敗を繰り返した。

 そして、諦めず試行錯誤するうちに、薄くて水分を吸う食用の紙を海外から見つけだす。最後は、缶に脱酸素剤を入れて完璧な無酸素状態を作り出し、奇跡のようなパンの缶詰が完成した。阪神淡路大震災から1年半の月日がたっていた。

phot パン・アキモト社長の秋元義彦さん
phot アキモトのパンの缶詰。ストロベリー味
phot 阪神淡路大震災時には2000個のパンを焼いてトラックに乗せ、神戸へと送り出した
phot 被災者に向け無料で提供。多くの人に対して、束の間だが「心の癒し」となったという
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