「令和改元」という“機密ミッション”の舞台裏 隠されたキーマンを追う“国家プロジェクト”はいかに遂行されたか(3/5 ページ)

» 2019年08月05日 07時10分 公開

改元のわずか1年前に世を去る

 尼子氏の仕事を多くの同僚は知らなかった。1990年代に公文書館に勤務したOBは「何をやっているか知らなかったが、『それでオッケー』という特別扱い。本務が内閣事務官で、公文書館は兼務だったのも影響したのだろう」と語る。現職の公文書館職員は「秘密の部屋があるらしく、どこで仕事をしていたかも知らなかった」と話した。

 尼子氏は時々「今日は『向こう』に行ってきます」と言って公文書館を出た。事情を知る元同僚によると、内閣官房での打ち合わせだったという。

 そんな尼子氏を「吉田増蔵みたいだ」と評した漢学者もいる。「吉田」とは大正から昭和前期に宮内省(当時)の図書寮編修官を務めた漢学者だ。文豪・森鴎外が宮内省幹部の図書頭として元号の出典などをまとめた『元号考』の編集を手伝った。鴎外の死去後、中国をはじめとした漢字文化圏の過去の元号との重複がない「昭和」を考案した人物だ。

 52年生まれの尼子氏。知人は「山陰の戦国大名の尼子氏とゆかりがあると聞いた」と語る。専修大卒業後に二松学舎大大学院の修士・博士課程で漢籍を学んだ。平成改元間近の87年に公文書館に採用され、副長官補室も併任。2007年10月の公文書館の特別展「漢籍」では中心的役割を果たした。その後体調を崩し定年前に退官したが、内閣官房に再任用され、非常勤の元号担当を続けた。

 新元号準備を30年間にわたって担った尼子氏。その行方を学会のつてなどでたどると、東京都内のマンションに住んでいるとの情報を18年10月に得た。ところが記者が訪ねた時には別人が住んでいた。マンションの管理人によると尼子氏は1人暮らしだった。管理人は「2018年5月19日に後輩の職員が『出勤して来ない』と訪ねて来て、亡くなっているのを見つけた。警察によると病死だった」と話した。

 60代半ばで亡くなった尼子氏。取材班は中国地方に住む尼子氏の弟への取材も試みたが、会うことはかなわなかった。弟は手紙で「兄の仕事や私生活も分からない」と説明。内閣官房の職員名を挙げて「勤務先の方に(遺品を)見て頂き、殆(ほとん)どの物を整理処分」したと伝えてきた。この職員に話を聞くことはできたが、生前の尼子氏との接点はなかったという。職員によると、部屋には足の踏み場もないほど大量の本が山積みになっていたといい、「尼子氏は『本の虫』だったみたいですね」と語った。

 尼子氏と何度も会っていた石川氏は、取材班から尼子氏の死去を知らされた。「えー」と絶句し、「二松学舎出身で親近感を持っていた。残念だな、残念だな」と繰り返した。公文書館の高山正也前館長は「漢籍に生きがいを見いだしていた人だった。改元が近づき『自分でなければできない』という自負はあったと思う」と悼んだ。

 改元のまさに1年前に尽きた尼子氏の寿命。弟の名前のうちの1文字は「和」で、尼子氏の「昭」彦と合わせると「昭和」となる。元号一筋の人生だった。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.