「令和改元」という“機密ミッション”の舞台裏 隠されたキーマンを追う“国家プロジェクト”はいかに遂行されたか(1/5 ページ)

» 2019年08月05日 07時10分 公開

編集部からのお知らせ:

本記事は、毎日新聞で2018〜19年に掲載した新元号に関する記事をまとめた書籍『令和 改元の舞台裏』(著・毎日新聞「代替わり」取材班、毎日新聞出版)の中から一部抜粋し、転載したものです。毎日新聞の取材班が追い続けた、新元号決定の知られざる舞台裏・人間ドラマをお読みください。


 2003年ごろのある日、東京都内の閑静な住宅地にある秋山虔・東京大名誉教授(日本文学)の自宅を2人の政府職員が訪れた。1人は元号選定業務の責任者・伏屋和彦内閣官房副長官補(75)。もう1人は尼子昭彦・国立公文書館公文書研究官(18年5月に死去)だ。

 1952年生まれの尼子氏は、副長官補室付の内閣事務官も兼務する元号専門の研究官。30年間にわたる新元号の準備の過程を最もよく知る人物だった。

photo 「令和」の新元号を掲げる菅義偉官房長官(提供:ロイター)

30年間「元号研究官」を務めたキーマン

 2人の訪問を受けた秋山氏は源氏物語研究の第一人者で、2001年に文化功労者に選ばれていた。

 1階の6畳和室で机を挟んで向き合った3人。伏屋氏らは「差し迫ったことではありませんけれども」と前置きしつつ、平成に代わる新元号の考案を依頼した。

 2002年12月には天皇陛下に前立腺がんが見つかっていた。翌年末に70歳を迎えられる年齢だったが、手術後も大事に至らず、新元号の考案は確かに「差し迫った」話ではなかった。退位の選択肢がない時代。「代替わり」が前提の仕事の依頼は極めてやりにくい。「差し迫ってはいない」との前置きは必須だった。

 その後は主に尼子氏が何度か秋山氏宅を訪れて意見交換を続けた。後日、秋山氏が日本の古典に記された漢文を典拠にした数個の元号案を尼子氏に渡した。ただ、秋山氏は15年11月に91歳で死去した。生前の12年2月、毎日新聞に経緯を明かしていた。

 尼子氏は「学者と内閣を取り持つパイプ役」(公文書館関係者)として複数の学者を訪れては考案依頼を繰り返し、元号案の回収を続けた。新元号「令和」を考案した中西進・大阪女子大名誉教授(89)=日本文学=のもとも訪れていた。

 首相官邸の事務方トップは、官僚出身の官房副長官。3人いる副長官補はそれに次ぐ幹部だ。元号担当の副長官補は代々、財務省出身者が務め、2〜4年程度で交代する。これに対し尼子氏は1987年12月1日付(紙面掲載時は88年としていたが、その後の取材で正確な日付が判明した)で国立公文書館に採用されてから30年間、一貫して元号に取り組んできた。

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