踏ん張りどきのいまは、新たな施策で急場をしのぐ。最終的には再び駅に客足が戻ることを願うが、まだ先のことだろう。
イベントも同様だ。例えば、崎陽軒の重要な販売チャネルとなっている横浜スタジアムも、プロ野球や高校野球などの観客数制限を続けており、それが売り上げにダイレクトに響いている。
ただし、このように苦しい中でも前を向くのは、地元・横浜のためにという思いが根底にあるからだという。この姿勢は崎陽軒の伝統そのものである。
歴史を紐解(ひもと)くと、崎陽軒が横浜の文化や経済の一端を支えてきたといっても過言ではないことがよく分かるだろう。
話は100年以上前にさかのぼる。
1908年、横浜駅(現在の桜木町駅)の駅長を務めていた久保久行氏の夫人、久保コト氏は、駅構内での営業許可を受けて、寿司(すし)や餅、サイダーなどの営業を開始。23年には法人化して、合名会社崎陽軒となった。初代社長として、久保氏の婿養子である野並茂吉氏が就任した。
以降、横浜駅で弁当などを販売していたものの、伸び悩んでいた。なぜなら、東京からの乗客の多くはすでに駅弁を購入しており、30分程度しか離れていない横浜で再び買うことはまずない。反対に、上り列車の乗客も、あと少しで東京に着くタイミングで駅弁は買わないだろう。
茂吉氏は頭を悩ませた末、横浜でしか手に入らない“キラーコンテンツ”があれば、乗客も買ってくれるのではないかと考えた。当時、横浜には名産品と呼べるものがなかったため、そこから名物づくりが始まった。
「ないなら作ってしまえ。これが今でも崎陽軒の経営スタイルとなっています」と野並社長は話す。
南京街(現在の中華街)の店で突き出しとして提供されていた焼売に目をつけた茂吉氏は、これを名物にしようと決意。点心職人の呉遇孫氏をスカウトし、1年かけて、冷めてもおいしい「シウマイ」を完成させた。1928年のことである。
その後、太平洋戦争を経て、1950年に転機が訪れる。販売促進施策として、横浜駅のホームから乗客などに向けて、赤い服を着た女性がシウマイを売り歩く、いわゆる「シウマイ娘」を誕生させたのだった。これが話題を呼び、毎日新聞に連載された獅子文六の小説「やっさもっさ」に登場。映画化もされて、全国に横浜名物・崎陽軒のシウマイが知れ渡るようになった。当然、売り上げも一気に伸びた。54年にはシウマイ弁当を開発。今でも同社の看板商品であり、横浜を代表する駅弁として鎮座している。
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