『昭和16年夏の敗戦』のなかに、このような記述がある。
”ーしかし、コンピュータが、いかに精巧につくられていても、データをインプットするのは人間である、という警句と同じで、数字の客観性というものも、結局は人間の主観から生じたものなのであった。”(中略)”「やる」という勢いが先行していたとしても、「やれる」という見通しがあったわけではなかった。そこで、みな数字にすがったが、その数字は、つじつま合わせの数字だった。”
猪瀬氏はこの”空気”にも近い意思決定の在り方を、好景気に湧く1983年当時に問題提起した。そして、コロナをめぐる意思決定や、企業の経営を左右する会議において多様なデータが飛び交う現代においてもなお、普遍的な課題を投げかけている。
この後に、本書ではこう続く。
”いわば、全員一致という儀式をとり行うにあたり、その道具が求められていたにすぎない。決断の内容より、”全員一致”のほうが大切だったとみるほかなく、これがいま欧米で注目されている日本的意思決定システムの内実であることを忘れてはならない。”
猪瀬氏は、自らの文学には「公」的な要素を持たせていると語る。
「『公』的な要素を持った本は、根拠を持って、ロジックがあって展開される。(当時)日本の製造業はきちんとしたものを作っていたが、文化として欧米と互角に渡れるものを作らないといけない、と思ったんですね」
これまでの猪瀬氏の著書に用いられた参考文献の数々は、「猪瀬直樹事務所」に置かれている高さ10メートルにも及ぶ書棚に保管されている。
「世の中の現象というのは、文学とか歴史とか政治とか、そういう風に分かれていない。1つの本を書くにはジャンルを統合した資料が集まってくるんです」
そのための情報整理術として、独自のノウハウを紹介してくれた。
「われわれの読書は、記憶の分類なんですね。だから、買った順に並べろ、というのは正しくて。「あの本どこ行ったっけなあ」と思った時は、「太宰治の『ピカレスク』を書いたときに買ったなあ」と思い出せるようになっているんですね」
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