5年間でベトナム3位の人気企業に 1500人の多国籍IT集団はどのようにして生まれたのか「エンジニアは未来を作るヒーロー」(2/4 ページ)

» 2021年10月19日 07時00分 公開
[小林泰平ITmedia]

 当時の日本のエンジニアは、いわば“多重下請け構造”の下部に存在することが多く、そういったマインドを持つ人も多かった。対して、当時仕事をしていたベトナムの若いエンジニアは、貪欲で頭もいい。何よりポジティブでキラキラしていたんです。若い分、経験値は日本人ほど高くないですし、エンジニアが描く「100点」の基準が低いときもある。ただ、それとトレードオフで考えても、ベトナムの方が大きな構想が描けると感じたんです。

 また、ベトナムは若年層の人口が多く、しかもエンジニアが花形の職業で、若く優秀な人がたくさんこの分野に挑戦してくる。絶対数が多いので、優秀な人材が大手だけでなく、中小企業にも普通に入ってきます。それは魅力でした。

photo 当時のベトナム時代の社員と働いている写真

 ベトナムでこだわったのは、安い労働力で下請けやオフショア開発を行う企業にはならないことでした。そこには、一つのきっかけがありました。

 当時、すでに日本法人のオフショア開発をベトナムで行うケースはいくつかあったのですが、その企業のトップの方と話したとき、「私たちはあえてエンジニアの技術を向上させない」と言っていました。日本で型を作り、生産は安い国にやらせたいので、エンジニアの技術が上がり給与が高くなるとコストが増大して困る──なので、技術を向上させないのだと。その言葉は頭にきました。

 それなら僕たちは、ソフトウェアやサービスで新しい価値を提供して、エンジニア自身も豊かになる構造を目指そうと思ったんです。当時は「エンジニアの給料を2年以内に3倍にする」とか言っていたようです。僕はその発言を覚えていないんですが、当時のエンジニアから後で言われました。

 具体的には、既存システムの保守や運用の依頼はたくさんあったのですが、ほぼ断って、新しい事業やシステム作り、サービスの拡張に特化していきました。クライアントの多くは、日本でエンジニアを確保できなくて困っている企業で、スタートアップが多かったです。

知識共有のプラットフォームを作り、エンジニアのつながりを構築

 最初は50人ほど現地で採用して、プログラミング言語の「Ruby」に特化したエンジニアを育成しました。Rubyを選んだのは、高速のプロトタイプを開発するのに優れた言語だったからです。創業1年以内に、Rubyアソシエーションから一定の技術を持った企業として認定を受けたのも大きかったです。東南アジアの企業で初めてということで、現地での評価にもつながりました。

 では、創業初期にどうやって仕事を広げたのか。

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