東京の通勤電車は「鉄道150年」で、どう変わったのか「守り」と「攻め」(1/4 ページ)

» 2022年10月12日 08時09分 公開
[小林拓矢ITmedia]

 押し寄せる通勤客をどうするか、一方で通勤需要を伸ばすにはどうするか――東京圏の鉄道は、この相矛盾する課題に対し、さまざまな戦略を取ってきた。

 「戦略」とは、「戦」の字が入っている通り、もともと軍事関連で使われていた言葉である。現代では企業活動をはじめ、さまざまな分野で「戦略」という言葉が使われるものの、それだけ激しい競争社会になっているともいえる。

 もちろん、鉄道も同様である。その中で東京圏の鉄道は、常在戦場(じょうざいせんじょう)ともいっていい状況にあった。私鉄と国鉄、私鉄同士の争い、一方で多数の通勤客。過酷な環境にどう立ち向かうかが、鉄道に課せられた使命だった。

首都圏の通勤はどう変わったのか(写真はイメージ、出典:ゲッティイメージズ)

東京は今よりもずっと小さかった

 江戸から東京へと変わっていく時代、東京の都市規模は現在よりも小さかった。1878年には東京の中心部を15の「区」に分け、その中には新宿や品川は含まれていなかった。89年にはそれらが合わさって「市」となる。

 72年、新橋から横浜まで鉄道が開業した時代、都市の公共交通は馬車を利用していた。大量輸送のため馬車鉄道が82年に開業し、路線網が拡大。しかしその路線網は、現在の山手線よりも小さい範囲でしかなかった。

 1903年以降、複数の事業者が競合し路面電車を開業、事業者間の競争が激化した。当時は、人の多い場所に鉄道をつくることが「戦略」であり、東京で働く人たちもその地域内で暮らしていた。11年には東京市が路面電車を運営するようになり、路面電車の事業者は「バイアウト」を果たしたことになる。

 現在のような通勤電車の走りは甲武鉄道によるものである。04年には飯田町(現在の飯田橋駅の近く)から中野間を電化、10分間隔で短編成による運行を行った。近距離の利用客が多いことに目をつけた甲武鉄道は、機関車による長距離列車に短い区間だけ乗客を乗せるのではなく、そのための電車をつくり、高頻度運転で利便性を高めようとした。電車運転区間はその後御茶ノ水からになる。

 通勤を扱う鉄道で初めて、「攻め」の戦略に出たといえるだろう。そのころ、山手線は環状線になっているどころか、電車の運行さえ行っていない状態だった。

 東京で居住者が多いエリアが拡大していくのは、23年の関東大震災がきっかけである。地盤の安定した西へと、人は移住していった。合わせて、鉄道の果たす役割も大きくなっていった。

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