東京の通勤電車は「鉄道150年」で、どう変わったのか「守り」と「攻め」(2/4 ページ)

» 2022年10月12日 08時09分 公開
[小林拓矢ITmedia]

「沿線ビジネス」の確立

 そのころ、東京都内から郊外へと向かう私鉄が多く運行されるようになる。22年に渋沢栄一が田園都市を設立、そこに住む人を運ぶために五島慶太を社長として招へいし、目黒蒲田電鉄を設立した。徹底した企業買収と路線網の拡大により、鉄道と住宅開発を複合的に展開するビジネスモデルを関東で初めて確立した。M&Aの天才ともいえる。

 時期的に、震災ゆえに都心の狭い環境から抜け出し、郊外に快適な住宅を求める動きが活発になっていた。高等教育を受け、研究者などの知的職業や、官公庁の職員、大企業のサラリーマンなどの「新中間層」をターゲットにして、鉄道ビジネスを展開した。

 これにならい、多くの私鉄は郊外に向けて宅地開発と合わせて路線網を設けていくことになった。例えば東武鉄道は、36年から板橋区の常盤台を住宅地として分譲し、通勤には東武東上線を使用している。戦前ではこのころまでは、「攻め」の戦略ができた時代といえる。

東武鉄道のスペーシア

戦争と高度成長の中で

 太平洋戦争で、東京は大きな被害を受けた。鉄道も例外ではない。戦時体制で通勤客が増えていた時代に設計した車両を、輸送力拡充のためにそのままつくり続けた。設計コストを下げ安全性を犠牲にしてでも車両をつくった。その代表がモハ63形である。

 この時代は、とにかく人を運ぶことしか考えられなかった。鉄道にとって、毎日が戦いだったといえる。そんな中、51年に発生したのが「桜木町事故」という列車火災事故だ。安全性を増すための改造がほどこされたものの、根本的な解決には新型車両の登場を待つしかなかった。

 鉄道にとって、この時代は「守り」の戦略を取るしかなかった。とにかく安全に多くの人を運ぶことが求められ、その対応に追われることになった。

 抜本的な対策は何か――新型車両と、線路の増設である。これでさえも、都市部への人口集中が進む状況にとっては、「守り」でしかなかった。

 57年には、中央線に101系電車が導入。当時は、モハ90系と呼ばれていた。「新性能電車」と呼ばれたこの車両は、加減速性能も高く、中央線快速の高密度運転に大きく寄与した。

 101系を改良した103系電車は、国鉄通勤電車のスタンダードモデルとなり、首都圏一円で走るようになった。コスト削減を中心とした改良を施した。

 101系を使用した山手線は7両編成だった。63年には103系が山手線に導入、8両編成になる。68年には10両編成に。山手線を中心として、鉄道各路線に新しい電車が投入されるようになった。

 それだけで、輸送状況のひっ迫は改善するわけではない。「通勤地獄」との戦いには、なかなか勝てない。

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