戦前、沖縄県には鉄道があった。1914年(大正3年)に開業した沖縄県営鉄道だ。那覇から東の与那原まで、次に北の嘉手納まで、そして南の糸満までの3路線だ。ほかに那覇と首里を結ぶ電気軌道、与那原から北上して泡瀬を結ぶ沖縄軌道、那覇と糸満を西岸回りで結ぶ糸満馬車軌道があった。これらのうち、沖縄電気軌道と糸満馬車軌道はバスに客を奪われ廃止、沖縄県営鉄道と沖縄軌道は空襲で壊滅した。
戦後、復興の輸送手段として鉄道の復活を望む声は多かったという。しかし米国統治下で鉄道より道路を整備する方針となり、線路の残骸も貴重な鉄資源として剥(は)がされてしまう。こうして米国流のクルマ社会になっていくけれども、その副作用として交通渋滞が発生した。1970年代までに排気ガス問題も顕著になったであろう。そこで市民や市議会から、沖縄で鉄道を求める声が再び高まっていく。
1972年に沖縄は本土復帰となり、日本政府は沖縄振興開発計画を策定した。このなかで都市モノレールの整備が定められ、国庫補助事業となった。ルートの決定、既存バス会社との協定、用地買収などに時間を要し、24年後の1996年に着工。03年に「ゆいれーる」として那覇空港〜首里間が開業。順調に乗客を増やして17年に単年度黒字を達成。19年に「てだこ浦西」まで延長した。
同年、輸送力増強のため将来の3両編成化方針を決定する。そして車両メーカーが好景気のため製造ラインが空かない、コロナ禍で需要が低下して運行本数を削減するなどの不運に見舞われながらも、23年2月には3両編成の試運転を開始。8月10日から3両編成の営業運転が始まる。8月13日からのダイヤ改正で3両編成の運行を増やす。
ちなみにモノレールも「専用の軌道を使って自社以外の人やものを運ぶ」として、鉄道事業法の鉄道として規定される。ただし設置場所が道路上になると軌道法の管轄になる。モノレールも道路上につくられると軌道だし、路面電車も専用の軌道があると鉄道扱いで、同じ路線でも鉄道と軌道が混在することがあってややこしい。政策では両者を併せて「鉄軌道」と呼ぶこともある。
「鉄軌道」は道路に比べて建設費が大きい。車両などの投資額も大きい。しかし大量輸送の効果はマイカーやバスより大きい。だからゆいレールの成功は、クルマ社会だと思われていた沖縄で鉄軌道の有効性を証明したといえる。
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