9月9日、トヨタ自動車はセンチュリーの追加バリエーションを発表した。
センチュリーは、1967年以来、日本を代表するショーファードリブンカー(通常運転手を雇い運転を任せるクルマ)として君臨してきた。かつては日産プレジデントという競合モデルも存在したが今はそれもない。
気づいてみたら、国内だけでなく、世界に視野を広げても、これだけ明白にショーファードリブンカーとして作られたクルマは他にロールス・ロイスしか存在しない。マイバッハは事実上、量産ドライバーズカーであるメルセデスベンツSクラスのバリエーションになってしまったし、ベントレーはそもそもの出自はスポーツレーシングカー。ブランドのコアにある思想からいっても、運転手に運転を任せるクルマではない。
こうして孤高ともいえる地位を手に入れたのは、兎にも角にもあらゆる意味で、別格の存在であり続けた結果である。そしてこういうクルマはまさに文化そのものであり、存続してもらわねば困るのだけれど、世界でセンチュリーとロールス・ロイスだけになってしまった現状が何を指し示しているかといえば、まあ商売としてはあまりにしんどいということだ。
実際センチュリーの生産工程は宮大工の仕事のようなもので、鳳凰のエンブレムは職人の手彫りだし、ボディの塗装は7層にも至る。しかもその過程で何度も手作業で水研ぎもする。オプションのスカッフプレートに至っては、ステンレスの板に、職人がハンマーで1枚あたり6000回叩いて木目模様を刻む。ちなみにお値段は4枚セットで77万円だ。
必要か必要じゃないかといえば必要じゃない。だってスカッフプレートなんて、敷居を蹴飛ばして傷をつけないための保護プレートだ。機能を満たせばいいなら、ラッピングの素材でも貼っておけばいい。1000円でも機能は満たせるのだ。
80%の仕上がりでよければ、1%かせいぜい10%のコストで実現できる。ただその作業プロセスにしても出来上がったものにしても、見る人が見れば圧倒される。伝統工芸でクルマが作られているのである。要するにセンチュリーは、立ち位置自体が工業製品ではなく、工芸品の領域に差し掛かっているわけだ。
耐久消費財であり、やがていつか廃車になるものに、美術的価値のレベルで造形を施す。まさに「かぶいた」行為だ。無駄を極致まで高めた先に何かがあるのだと思う。いわば、クルマ1台まるごとが合理化の余地の塊なのだが、それを合理化してしまうとそのご本尊が失われる。大変難しい商品である。
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