イオンが手掛けた“謎の百貨店”「ボンベルタ」 密かに姿を消した理由とは?前編(1/4 ページ)

» 2024年08月29日 08時00分 公開

 日本各地で地域のシンボル的存在だった百貨店の閉店倒産廃業が相次いでいる。

 2024年1月には島根県唯一の百貨店「一畑百貨店」が廃業、5月には鹿児島県唯一の百貨店「山形屋」が事業再生ADRによる私的整理を開始、7月には岐阜県唯一の百貨店「岐阜高島屋」が閉店した。百貨店の支援や跡地活用に向けた取り組みは、これらの地域にとって喫緊の課題となっている。

 そのような状況下、千葉県成田市の百貨店「ボンベルタ」がひっそりと姿を消した。

 日本を代表する流通大手、イオングループが手掛けるものの、全国的知名度は皆無。千葉県民でも知る人ぞ知る存在だった百貨店は、イオンの今後の戦略に新たな道を示していくこととなる。前編、後編の2回にわたって紹介する。

新装開業当日の「そよら成田ニュータウン」。バス停には「ボンベルタ」の文字が残る(撮影:淡川雄太)

“謎の百貨店”ボンベルタ、なぜ生まれた?

 イオンの前身「ジャスコ」を始めとする総合スーパーは、高度経済成長や大量生産・大量消費社会を追い風に業界内での影響力を向上。1972年にダイエーが三越を抜き小売業界首位となるなど、百貨店に代わり小売の王様としての地位を確立しつつあった。

 一方、総合スーパー各社は競合他社との同質化、地方展開に課題を抱えており「何でもあるが欲しいものはない」と評する客も当時からみられていた。

 小売業界首位となったダイエーは外資系百貨店「プランタン」を設立。大手百貨店「高島屋」や経営基盤の脆弱な地場百貨店各社への出資を通し接近することで、消費者ニーズの多様化・高度化といった課題の解決を試みるが、ジャスコも同様の取り組みを打ち出していた。

 ジャスコは1969年2月に西日本地場大手スーパー3社の共同仕入機構として設立した経緯もあり、1976年8月の千葉地場老舗百貨店「扇屋」との経営統合、1977年8月の茨城地場老舗百貨店「伊勢甚」との経営統合まで首都圏での影響力は乏しかった。

 扇屋・伊勢甚はともに、三越や松坂屋といった大手百貨店各社と仕入調達や販促面で業務提携を結びつつ、総合スーパーや飲食サービス、金融業など関連領域に業容拡大を図るなど、地域の代表企業として存在感を示しており、ジャスコの首都圏での店舗展開の足掛かりとしての役割を担った。

 一方、ジャスコの業界内での規模は同業大手と比べ依然として下位にあり、再開発ビルの商業核といった「一流の地」でなく、「二流の地」しか店を構えることができない要因となった。

(関連記事:「二流の地」から「流通の覇者」へ イオンが成功した出店戦略とは

 そこでジャスコは、1978年度に都市計画が決定した「上尾駅東口第一種市街地再開発事業」の商業核として、伊勢甚や扇屋のノウハウを生かした新たな百貨店業態を立ち上げる方針を表明。1983年1月に同社初となる百貨店1号店ボンベルタ上尾を埼玉県上尾市に開業したのだった。

 フランス語「ボン(Bon)」とイタリア語「ベルタ(Belta)」を組み合わせた外資系百貨店風の屋号と業態は、都市のブランドイメージ向上に結び付く百貨店業態を要請する地元政財界や再開発組合の声に応えたものであり、ジャスコにとっても同業との差別化や専門店の誘致交渉にメリットがあった。ボンベルタの屋号は、1988年5月の橘百貨店(橘ジャスコ)建替新装開業、1989年2月の伊勢甚社名変更にあわせ、グループの百貨店共通ブランドとして発展することとなる。

 その過程で1992年3月にジャスコは従来型百貨店と一線を画す新店舗を立ち上げることとなる。それがボンベルタ成田」だ。

地場百貨店を前身とするイオン系百貨店「ボンベルタ橘」。イオンからの独立後、2020年2月にPPIH傘下に移行。同年11月にMEGAドンキとなった(撮影:淡川雄太)
       1|2|3|4 次のページへ

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.

アイティメディアからのお知らせ