古舘は本書を執筆する際に「自白本」を刊行した思いだったという。 「実況はライブです。事前に調べた資料は手元にありますが、まず試合の動きに合わせて話していかないといけません。でも準備や苦悩をしながら仕事に向かう舞台裏は、皆さんに見せない方がかっこいいんじゃないかと思って生きてきました」
ところが2024年に70歳になることになり、心境に変化が生まれたのだという。よどみなく話し、あまたの名フレーズを世に送り出すなど、まさに「喋り手のプロ」を支えてきたのは、時代を代表する天才たちとの出会いだ。アントニオ猪木、アイルトン・セナなど、まさに天才を描写することをなりわいにしてきたからこそ、準備の必要性を感じたとも話す。
「ド天才を見てきちゃったんです。自分が平凡だからすごく分かる。その人たちを描写するのなら、こうならざるを得なかった」
そして、アドリブというのは存在しないとも断言する。
「『ひらめいた』『その時、舞い降りてきた』とか言いますが、ああいうのは全部うそです。言語野の中に『言葉のワイナリー』があって、普段はそこに沈んでいます。ある時、何かの言葉と、ある言葉の樽同士をスワッピングするようにして、なんかフワっとアドリブとして出ますが、それはアドリブの元が全部、準備されていたってことなんです」
論理的に考えれば、アドリブ、ひらめきも脳が作り出したものだ。その作成プロセスの元は、準備し、熟慮して作り出した言葉であることは間違いない。古舘は、言葉の本質を理解していた。
名実況には名フレーズがセットになっていることが少なくない。パリ五輪のスケートボード女子ストリートでは吉沢恋が金メダルを獲得した。実況したアナウンサーは「金メダルに恋した14歳!」と発し、SNS上では賛否両論を呼んだ。古舘は名実況を狙う姿勢に理解を示す。
「『ふと出てくるアドリブが素晴らしい』『狙って用意した言葉がかっこ悪い』という風潮は、古いなと感じました。彼らは勉強して、下調べをして、自分を落ち着かせ、蓄積したものが、ふとアドリブ的に出ているだけなのですから」
イベントでの質疑応答では、参加者から「準備と“備え”との違い」について質問を受けた。
「自分の勝手な考えですが、備えは心持ちのこと、構えだと思います。備えるぞっていう自覚とか意識です。一番良くないのは、楽しい時に浮かれ、ダメな時にうなだれること。常に備えていれば平常心でいられます。一方、実際に作業を進める工程のことを、僕は準備だと思っています。走り出すと、もうそれは準備になるかなという感じがします。備えて怖がり、一生懸命に準備するしかないのかなっていう気がしますね」
今回、印象的だったのは「準備したものを捨てる」ということ以上に「頭の中には(準備の)残滓が残っている」という古舘の言葉だった。プレゼンや商談の場では、相手に自分の意図や思いを正確に伝えなければ成果を上げられない。だが古舘のいう通り、ちょっとした間やタイミングがその場の空気を変えてしまう。そのような場では、話者本人の頭の中にある残滓こそが、本当に相手に伝えたかったことのはずだ。
商談でも、準備通りに話が進むケースはあまりない。クライアントが想定外の要求をしてくることもあるだろう。そのときに備えてあらかじめ準備をし、バックアッププランを提示できるかどうかに成否がかかっている。
結局、相手から信頼を勝ち得て成果をあげるために必要なのは、今も昔も準備に他ならない。
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