生成AIが労務の現場にも浸透し始めています。勤怠、休職・復職、育児・介護、雇用区分──従業員が日々向き合う制度は複雑で、どの手続きを踏めばいいのか分かりづらいという声も聞かれます。
前編では、労務領域における生成AI活用を「守り」の視点から整理しました。労務は制度やルールを誤りなく運用し、組織における従業員の活動基盤を支える役割を担っています。そのため、“AIを安全に働かせる”ための設計は、その出発点として欠かせません。
一方で、労務の仕事は制度を正しく動かすだけではありません。
といった “分かりやすい運用” をつくることも、労務が提供できる重要な価値です。
後編では、労務の「分かりにくさ」を生成AIがどう解消できるのかを取り上げます。分かりやすさが、従業員体験(EX:Employee Experience)の向上にいかに影響するのかを整理し、生成AIによる“攻めの労務”が組織にもたらす価値を見ていきます。
勤怠ルール、給与明細の理解、休職・復職の手続き、育児・介護に関する案内、雇用区分ごとのフロー、問い合わせ対応など、こうした運用の一つ一つの“分かりやすさ”が、EXに直接影響します。
生成AIは、この“分かりやすさ”を生み出す領域でも大きな力を発揮します。前編で扱った安全設計を前提としながら、今回は労務業務全般において、生成AIがどのようにEXを高められるのかを整理します。
制度を“使いやすくする”だけでなく、手続きを迷わせず、情報へのアクセス性を高め、問い合わせの負荷を減らす。こうした取り組みこそが、生成AIによる“攻めの労務”が組織にもたらす価値となるでしょう。
労務業務が複雑になる理由は、そこに関わる制度そのものの難解さだけではありません。運用の“分かりにくさ”の正体は、次のような構造的な要因から生まれています。
こうした運用構造の複雑さは、従業員が成果を出すために働きやすくしたいという制度の本来の意図とは無関係に、従業員の理解コストと労務の業務負荷を同時に押し上げる要因となっています。
生成AIが労務領域で価値を発揮するのは、こうした “構造としての複雑さ”を、人が理解しやすい形に変換する場面です。例えば、制度の背後にある条件群を“利用者視点のフロー”に再編成することは、AIが最も得意とする処理です。
AIが制度を理解し、フローを示し、必要書類を整理できるのは、単にAIの処理能力が高いからではありません。複数の文書や情報源を横断し、論理的な一貫性を保ちながら「何をどうすればよいのか」を一つの流れとして編み直すことができるからです。
長い文書を短く要約することや、理解しやすい言葉に書き直すことは、生成AIにとって難しい作業ではありません。しかし“分かりやすさ”の本質はそこではなく、制度の要点を抽出し、利用者に必要な部分だけを示す“構造の編集”にあります。
例えば、休職・復職手続きには実際には複数のケースが存在します。
これらを全て“例外”として条件分岐を増やして案内しようとすると、制度は必ず複雑化していきます。現場でよく起きる「例外が例外を呼ぶ」状態がまさにこれです。
生成AIは、この複雑化した構造を、 利用者にとって必要な条件分岐だけを可視化し、例外を例外として整理し直すという役割を果たします。例えば従業員が「家族の介護」を理由に休職を検討している場合、AIは関連する条件分岐のみを提示し、それ以外のパターン(傷病、メンタル、雇用区分による差異など)は“制度全体の前提”として扱います。
従業員は自分の状況に合う部分だけを見ればよく、全てのパターンを把握する必要はありません。これが“分かりやすさ”の本質となります。
そして重要なのは、AIの導入によってどこに例外が集中しているのかが可視化されることです。
生成AIに制度案内やFAQ対応をさせると、AIが苦手とする部分が明確に現れます。これは単なるツールの限界ではなく、制度そのものの“整合性の弱点”が露呈していることを意味します。
例えば、
といった、情報が構造化されていない部分です。ここはそのまま制度・運用の改善ポイントになります。
したがって生成AIの活用は、「複雑なものを分かりやすくする」だけではなく、「複雑さを生まない仕組みをつくる」ことにもつながる点で意義があります。
労務における“分かりやすさ”とは、従業員が余計な迷いを抱かず、本来向かうべき行動にエネルギーを使える状態です。そしてこれはEXの向上と、労務の生産性向上の両方に直結します。
“分かりやすさ”とは認知コストを下げ、従業員が 「やるべき仕事」にまっすぐ集中できる環境をつくることにほかなりません。
生成AIは、この“認知コストの削減”を構造的に実現し、EXと効率の双方を底上げする手段となるため、 “攻めの労務”の中心的テーマと言えます。
ここからは、同じテーマを、より従業員の視点に寄せて見ていきます。
制度そのものが整っていても、「どこに書いてあるのか分からない」「自分に当てはまるのか判断できない」という状態では、EXは向上しません。
生成AIは、この“制度の使い心地”を改善する領域でとても大きな効果を発揮します。複数の情報源を横断し、利用者の状況に合わせて必要なポイントだけを抽出し、「自分はどうすればいいのか」をひとつの流れで提示できるからです。
では従業員目線で、生成AIがEX向上に貢献する実践ポイントを整理します。
制度が必要な人に届かない理由の多くは、「見つけられない・読めない・自分に当てはまっているのか分からない」という、入口の不備にあります。生成AIは複数の文書を横断し、従業員の状況に応じて必要な制度や書類、手続きの流れを提示できます。
従業員は制度全体を理解する必要がなく、「自分に関係すること」に集中できる。まずは社内にある文書を生成AIに渡してアクセスできる環境を作るだけで、問い合わせや確認のやりとりを大きく減らすことができます。
休職・復職、育児・介護、雇用区分変更など、どの手続きにも複数のケースと例外が存在します。従来は、それらを全て説明しようとした結果、文書が肥大化し、かえって読まれなくなる状況が生まれています。
生成AIは、利用者が入力した条件から必要な分岐のみを抽出し、手続きを一つのフローに再構成できます。“例外だらけの全体説明”ではなく、利用者に応じて“自分に必要な部分だけ”が見える状態をつくれる点が強みです。
生成AIを導入すると、AIがうまく回答できない部分=制度や運用の不整合が集中している部分が浮かび上がります。
文章の揺れ、部署ごとのローカルルール、例外の増殖━━こうした“制度側の問題”が可視化されることは、制度改善そのものに大きなヒントを与えます。
生成AIは、複雑さを“分かりやすくする”だけでなく、複雑さを可視化し、複雑さを生まない制度設計へとつなげるきっかけにもなります。
労務における“分かりやすさ”とは、従業員が余計な迷いにエネルギーを取られず、向かうべき業務に集中できる状態です。制度が使いやすいほど認知コストが下がり、EXと生産性は自然に高まります。
生成AIによる“分かりやすさの再設計”は、その両方を同時に押し上げるための、有力なアプローチと言えるでしょう。
前編では「安全にAIを働かせるための守り」を整理しました。後編で扱ったのは、その基盤の上で生成AIを“使いやすさのデザイン”にどう生かすかという視点です。
生成AIは制度そのものを変える道具ではありませんが、情報の束ね直しや構造整理、必要部分の抽出によって、制度の“使い心地”を大きく改善できます。従業員は迷わず手続きを進められ、労務側は差し戻しや問い合わせが減り、組織全体の認知コストも下がります。AIの価値は効率化だけでなく、従業員体験(EX)そのものを高める点にあると言えます。
AIが複雑さを可視化し、人が制度の意図を磨き直す。この役割分担が確立すると、労務は“手続きを回す部門”から“働きやすさを設計する部門”へと進化できます。攻めの労務とは、制度ではなく体験を起点に運用を再設計していく姿勢のことです。生成AIは、その変革を確実に後押ししてくれる存在です。
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