「オフィスはコストか、それとも投資か」
この問いは、コロナ禍を経てより切実なものになった。リモートワークが一気に普及し「オフィスがなくても仕事は回る」ことを多くの企業が実感したからだ。一方で現在は、出社回帰の流れも同時に進んでいる。
出社しなければならない理由を「対面の方が何となく良いから」といった感覚論で説明するだけでは、社員を説得できない。経営層はいま、オフィスに対して明確な意味付けを求められている。生産性、創造性、人材の定着、企業文化の継承──オフィスはそれらにどのように寄与するのか。
こうした課題に対し、製造現場から一つの実践解を提示したのが、滋賀県近江八幡市にあるイトーキの滋賀工場だ。工場内にあるチェア工場オフィスを全面改修し「ITOKI DESIGN HOUSE SHIGA」としてリニューアルオープンした。
同施設は、単なるオフィス家具の生産拠点ではない。経営、人事、DXという複数の経営テーマを横断しながら「これからの働き方」を実装するための共創拠点として機能させている。現地を取材した。
イトーキのモノづくりを、長年にわたり支えてきた滋賀工場は「マザー工場」と呼ばれる重要な製造拠点だ。同工場での働き手の構成は、従来は男性社員が多かったものの、近年は女性や外国人、障がい者など非常に多様化している。喫緊の課題だったのは「誰もが力を発揮し、長く働き続けられる環境づくり」だ。
こうした状況に対し、同工場では数年前から段階的に職場環境の改善に取り組んできた。例えば、休憩室をリニューアルすることによって、働く人の満足度を向上させたという。加えて社員や家族に対してのレクリエーションを実施したり、製造現場で働く人が自ら情報を発信する「工場アンバサダー制度」を導入したりした。この取り組みが奏功し、生産本部のエンゲージメントスコアは、2022年の50.8%から2025年の81.6%へと、3年で大幅に向上した。
採用にも好影響を与えている。技能職の求人応募数は、2023年から2025年にかけて約4倍に拡大。一方で、離職率は半減した。これらの成果は社内にとどまらず、社外からの注目も集めている。近年では、他社からの工場見学者数も増加。製造業における「働く環境のアップデート事例」として関心を集めている。
こうした流れをさらに発展させたのが、ITOKI DESIGN HOUSE SHIGAだ。滋賀工場内に集積する開発・設計機能を核に、データ活用とデザインを掛け合わせることで、開発の質とスピード、人材のエンゲージメント、採用力を同時に高めることを狙う。
イトーキの湊宏司社長は「どんな空間で、どんな意思決定が加速するのか。その設計次第で、企業の競争力は大きく変わると考えています」と説明する。
単なるオフィスの改修ではなく、人や空間の使われ方をデータで捉え、改善を重ねる仕組みを取り入れた。開発力と人材価値を継続的に高めていく「進化し続ける工場オフィスモデル」を構築した点が大きな特徴だ。ショールーム、ギャラリー、ラボといった機能を製造現場とつなぐことで、開発力の強化、人材の成長、ブランド価値の向上を同時に実現することを目指す。
ITOKI DESIGN HOUSE SHIGAでは、異なる機能を上下に積み重ねる「フロアスタッキング」によって、共創が生まれやすい構造をつくり出している。各フロアには明確な役割を持たせた。それぞれが有機的につながることで、開発の質とスピードを高める設計としている。
1階は、社外パートナーや来訪者を迎え入れ、イトーキのモノづくりを社会に開くためのフロアだ。製造ラインに近接した立地を生かし、技術展示や試験室を通じて、チェアの品質や安全性、技術背景を体感できるようにした。単なる見学の場にとどまらず、展示を介した対話から新たな価値創出へとつながる社外共創の起点として機能させる。
2階は、設計・開発メンバーを中心に、他拠点や異部署のメンバーが集い、議論と検証をする社内共創フロアだ。開発ラボや、人間工学に基いて製品を開発する環境を整えたエルゴノミクス(人間工学)ラボ、そしてスタジオを集約。アイデア検討から試作、評価までを一連の流れで実行できる環境を整備した。
エルゴノミクスラボでは、モーションキャプチャーや、座面にかかる圧力などをリアルタイムに計測する機器であるシートトレーサーを活用しており、身体データに基づく検証ができる。スタジオではMR(Mixed Reality:複合現実)技術を導入。現実空間に原寸大の3Dモデルを投影し、離れた場所にいるメンバー同士が同じ立体物を目の前で見ながら議論・検証できる仕組みを構築した。これにより、企画部門のある東京と、設計・生産部門のある滋賀を接続し、物理的な距離を越えた共創型開発を可能にしている。
3階は、日常的に執務を行うフロアであり、没頭と検証を支えるモノづくりの拠点だ。チームでスピーディーに検証や意思決定をする業務特性を踏まえ、一定のまとまりを持たせたグループアドレス制を採用。チェアを囲んで議論できるエリアや、思考に没頭できるエリアを配置している。空間デザインには、琵琶湖の葦(ヨシ)や花崗岩などの地域素材を取り入れた。滋賀らしさを感じながら思考を深め、検証と改善を重ねられる環境を整えている。
4階は、食事や休憩を基本としつつ、交流やイベントにも対応する多目的フロアだ。多様な席構成により、食事だけでなく軽い打ち合わせや1on1、リフレッシュなど柔軟な使い方を可能とした。社内イベントやワークショップにも活用するなど、部署や立場を越えたコミュニケーションが生まれる場として機能している。
ITOKI DESIGN HOUSE SHIGAでは、イトーキと外部パートナーの共創も促進したい考えだ。イトーキが培ってきた開発・製造の知見と、外部パートナーの専門性やアイデアが交わることで、価値を生み続ける場を用意した。
同社はリニューアルを通じて、滋賀工場の役割を変えようとしている。同工場はこれまで「製品をつくる場所」としての役割を担ってきた。リニューアルを通じて、人と情報が行き交い、共創が自然に生まれるモノづくり拠点へと進化させたことで、この事例を新しい地方工場オフィスの標準として広げていこうとしているのだ。
湊氏は「今は、家具を売っているというよりは、新たな働き方を提供しているんです」と話す。
リニューアルにおける空間設計の特徴は、空間を一度整えて終えるのではなく、使い方をデータで捉え、改善を重ね続ける仕組みを組み込んだ点にある。ITOKI DESIGN HOUSE SHIGAでは、この考え方を具現化する取り組みとして「Data Trekking」を導入した。
Data Trekkingとは、IoTセンサーなどを用いてオフィスの稼働状況と社員の働き方を可視化・分析するサービスだ。人の動きや空間の利用状況を可視化する位置情報データ、働きやすさやエンゲージメントを把握するサーベイデータ、レイアウトや用途を管理するスペースデータを組み合わせて分析する。
これまで培ってきた経験や知見に、データを掛け合わせることで、感覚や印象に頼らない、より確かな根拠に基づく改善サイクルを実現しているのだ。分析結果をもとに、課題の把握から小規模なレイアウト変更、運用改善までを継続的に実施している。
床や壁、展示什器にはグリッドや目盛りといった意匠を取り入れ、日常の中で製品や空間のスケール感を、自然と意識できる仕掛けを設えている。モノづくりの現場ならではの寸法感覚や、精度への意識を空間全体で共有するようにした。
ITOKI DESIGN HOUSE SHIGAは、社内向けの取り組みにとどまらず、法人向けの工場・オフィス見学も積極的に受け入れている。製造現場とオフィスを一体とした空間を体験してもらうことで、製造業における働く環境の在り方や、工場オフィスの可能性についての対話を生み出していく狙いだ。
座席を用意して出社を強要しても、イノベーションは起きない。イトーキ滋賀工場の事例が示すのは、空間設計によって部門間の壁を取り払うことで、オフィスそのものを「競争力の源泉」に変える発想だ。「オフィスはコストか、投資か」への答えは、経営トップが働く環境の再定義にどこまで本気で踏み込めるかにかかっている。
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