岩田さんはWiiに自分の存在理由をかけた:任天堂Wii 開発回顧録 〜岩田社長と歩んだ8年間〜(1/4 ページ)
2006年12月、いよいよWiiが発売に。岩田さんはWiiの開発を振り返り、「自分の存在理由をかけた戦い」と表現しました。Wiiというプロダクトによって岩田さんは何をしようとしていたのでしょうか。
この連載では、任天堂の家庭用ゲーム機「Wii」の企画を担当した私の経験を基に、Wiiの初期のコンセプトワークや、それを伝えるためのプレゼンテーション、その先の開発プロジェクトなどについて紹介してきました。
そして2006年12月、私たちの思いが詰まったWiiがついに発売されました。岩田(聡・任天堂前社長)さんはWiiの開発を振り返り、「自分の存在理由をかけた戦い」と表現したことが、私の心に強く刻まれています。
連載最終回となる今回は、Wii発売後の任天堂の施策について振り返りながら、岩田さんがしようとしていたことについて、私なりの考えをお話したいと思います。
ユーザーは本当にほしい商品を知らない
コンセプトとは、直接お客さんに伝えるものではないと私は考えています。例えば、Wiiの箱や説明書に「これはご家庭のお母さんに嫌われないように設計しました。どうぞお母さんもお楽しみください」「これはリビングで遊ぶと楽しいゲームですので、ぜひリビングに設置してください」と書いてあったところで、それを実行する義理などユーザーにはありません。わざわざお店に行ってお金を出してまで商品を買っているのに、なぜ作り手の意図にまで従わなければならないのでしょう。
けれども、Wiiは「家族皆で、特にお母さんに好きになってほしい」「リビングルームで楽しんでほしい」といったコンセプト(=大切な思い)を持っています。そんなコンセプトを全仕様に込めたとはいえ、伝わるかどうかは未知数です。
そこで必要なのが、市場調査です。一般的に市場調査は、プロダクトを企画する前に「どこにお客さんがいて、どんな商品を求めているか」を調べ、それをベースに企画を考えるという形で用いられますが、任天堂は商品を出した後に調査しています。米Appleの創業者、故スティーブ・ジョブズ氏は「ユーザーは本当にほしい商品を知らない」と言ったそうですが、確かに考えてみると、当時、「Wiiみたいな商品がほしい」と言えたユーザーは本当に少なかったのではないかと思います。そうなると、市場調査を基にした企画ほど、的外れな行為はないと言えます。
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