岩田さんはWiiに自分の存在理由をかけた:任天堂Wii 開発回顧録 〜岩田社長と歩んだ8年間〜(4/4 ページ)
2006年12月、いよいよWiiが発売に。岩田さんはWiiの開発を振り返り、「自分の存在理由をかけた戦い」と表現しました。Wiiというプロダクトによって岩田さんは何をしようとしていたのでしょうか。
自分、そして相手の心を変えること
とあるイベントで、岩田さんと一緒に登壇するという機会がありました。そこで私は岩田さんに「こういうイベントのときって、緊張しないんですか?」という、今考えるとずいぶん間抜けな質問を投げ掛けました。すると岩田さんは、満面の笑みを浮かべて、こう言いました。
「えーとね……あきらめました!」
緊張するのは仕方ないことだけど、自分がしなくてはいけないことや、したいことを止めるわけにもいかない。だからこそ、緊張が発生すること自体をあきらめる。緊張することが悪であるという考えそのものを、あきらめる。そして、緊張そのものをなくそうとするのではなく「緊張の中で、なすべきことをなす自分へと変えていく」のだと。
ある問題に対して「問題を消す」のではなく、「自分の価値観を変える」ことで対処する、そんな哲学を私は岩田さんから学びました。考えてみれば、プロダクトにコンセプトを込めることも、コンセプトをプレゼンで伝えることも、相手の心を変えることが最大のゴールです。ある時点では「ほしくない、特に何とも思わない」と感じているお客さんの心を、「ほしい」という心に変えることこそがビジネスの根底ですから、あらゆるビジネスは相手の「心を変えること」がすべてであると言っても過言ではありません。
他人の心を変えるという行為は、ややもすれば高圧的で強制的で、暴力的な色彩を帯びることがあります。しかし岩田さんは、ゲームという形で、優しく温かく、お客さんが自発的に自分の心を変えていくという体験を作るプロでした。
この連載で紹介した岩田さんの発言の中に「こうしなさい」という言葉が1つもないことが、何よりの証拠です。すべての岩田さんからのコミュニケーションは、受け手が自分でその大切さに気付くという体験を期して、優しく、そして温かくデザインされていたのでした。
岩田さんに心から感謝し、ご冥福をお祈りします。
著者プロフィール
玉樹真一郎(たまき しんいちろう)
わかる事務所 代表
1977年生まれ。東京工業大学・北陸先端科学技術大学院大学卒。プログラマーとして任天堂に就職後、プランナーに転身。全世界で1億台を出荷した「Wii」の企画担当として、最も初期のコンセプトワークから、ハードウェア・ソフトウェア・ネットワークサービスの企画・開発すべてに横断的に関わり「Wiiのエバンジェリスト(伝道師)」「Wiiのプレゼンを最も数多くした男」と呼ばれる。
2010年任天堂を退社。青森県八戸市にUターンして独立・起業。「わかる事務所」を設立。コンサルティング、ウェブサービスやアプリケーションの開発、講演やセミナー等を行いながら、人材育成・地域活性化にも取り組んでいる。
2011年5月より特定非営利活動法人プラットフォームあおもり理事。2014年4月より八戸学院大学ビジネス学部・特任教授。
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