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汚名返上を願う! 豊臣秀次は地元に愛される名君だった「真田丸」を100倍楽しむ小話(3/3 ページ)

豊臣秀吉の怒りを買い、28歳の若さで亡くなった豊臣秀次。“殺生関白”というあだ名が付けられるなど、これまで悪名高いイメージがありましたが、実は地元・近江の人々からは今なお慕われている名君なのです。

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小日向: 一般的には石田三成が秀次を取り調べして追い詰めたと言われていますが、三成も同じ近江衆として助命のために尽力したという説もあります。私は後者を信じます。

 それを示す史実として、秀次の死後、舞兵庫(前野忠康)をはじめ「若江八人衆」と呼ばれる優秀な部下を三成が引き取りました。そして彼らは関ヶ原の合戦で最後まで石田軍のために必死で戦いました。

 この「秀次事件」によって、その後の行動が変わった人も少なくありません。例えば、最上義光の愛娘である駒姫は秀次の側室になりましたが、結婚してまだ顔も合わせていないのに、連座させられてしまいました。義光は必死で助命嘆願するのですが許されず、愛娘を殺されてしまったのです。その結果、最上家は関ヶ原の合戦で徳川家康率いる東軍についたのだと思います。

 藤堂高虎も8回くらい主君をコロコロ変えている節操ない武将ですが、秀次事件の後、「もうやってられない!」という感じで家康に仕えたのではないでしょうか。

編集部F: いろいろと波紋を呼んだ事件ですね。明日の放送で、秀次の最後はどんな描かれ方がされるのか――。

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