業績回復に導いた、オリオンビールの徹底したブランド戦略とは?:海外にも販路拡大(2/3 ページ)
今年に入って初の海外拠点を設立するなど、今では沖縄以外でも手軽に飲めるようになったオリオンビール。売り上げを伸ばし続ける裏側には徹底的なブランド戦略があった。
ビールで戦後復興
オリオンビールの歴史は沖縄の戦後復興とともにある。
創業は1957年。当時はまだ米国の施政下にあった沖縄において、ある日、米軍の民政官だったパージャー准将が商工会議所の総会でこれからの沖縄の産業の柱になるのは「セメント」と「ビール」と語った。セメントは建物や道路などを建設するハード面で必要だった。一方、ビールは人々に希望とやる気を与えるというソフト面で大切だというのがその真意である。
この講演を聞いたのが、オリオンビール創業者の具志堅宗精(ぐしけんそうせい)氏だ。それまで具志堅味噌醤油(現・赤マルソウ)という、味噌や醤油の製造会社を経営していた同氏は、沖縄が戦後復興するための新たな事業を考えていた。そうした中でパージャー准将の言葉を聞いたことで奮い立ち、オリオンビールを設立したという。
当時はまだ珍しく、一般公募での株式会社として、5000万B円(日本円で約1億5000万円)の資金を集めて、沖縄北部の名護市で事業をスタートした。
米軍統治下だった沖縄にとってビールは身近なお酒だった。米国のバドワイザーやオリンピアという輸入ビールのほか、サッポロやアサヒといった日本メーカーのビールも販売されていた。ただし、消費者は輸入ビールに味が慣れているので、オリオンビールも彼らの嗜好に合わせたライトなビールを開発することに決めたという。
それを裏付けるのが、創業まもない1959年に販売したドイツ風のビールだ。麦芽やホップを使った苦味が特徴だったが、まったくといっていいほど売れずに返品が相次いだという。
その翌年に生ビールを発売。当時は、酵母を除去するろ過技術が発達していなかったので、名護の工場近辺で販売していた。その後、技術進展とともに事業も軌道に乗り、1967年には全島での販売に至った。
ところで、オリオンビールはなぜ名護を創業の地に選んだのだろうか。
ビールを製造するにはそれなりの敷地や設備も必要だが、何よりも水を大量に使う。沖縄はサンゴ礁が隆起した島なので、土壌がアルカリ質で、硬水が主流である。ところが、ビール作りに硬水は合わないという。そこで創業前に具志堅氏が沖縄各地を調べた結果、山がある名護では清流で磨かれた軟水が採取できるということが分かり、本社を建てたのだという。現在の本社は浦添市にあるが、ビール工場は依然として名護に残っている。
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