自由を我らにGPLv3 Conferenceリポート2(3/4 ページ)

» 2006年02月02日 14時15分 公開
[八田真行,japan.linux.com]

世界各地における自由なソフトウェアの受容

 昼食休憩に入ると、g新部裕さんやFSFのエグゼクティヴ・ディレクターであるピーター・ブラウン氏から呼び出しがかかった。欧州(FSFE)や日本(FSIJ)、ラテン米国(FSFLA)といった世界各地のFLOSS推進団体の関係者を集めたコミッティーを新設したいので、午後は大会場ではなくMITのファカルティラウンジに行ってほしいとのこと。ということで、午後からはそちらでの議論に加わることになった。大会場では筆者がいない間、今年度のFSF Awardの授賞式(Sambaのアンドリュー・トリジェル氏が受賞)やDRMに関する議論が行われていたはずだが、残念ながらそちらにはほとんど出席できなかったのである。このように、大会場での参加者が減ったのは、主だった人々が別の場所での個別議論に狩り出されていなくなったというせいもあるのではないか。個人的には、こういうのは複数の会議を同時並行で開催するようなもので、せっかく集めた人的リソースの分散を招いて効率が悪いと思うのだが……。

 指定された部屋に行ってみると、FSFEの代表であり、日本人にはBrave GNU Worldの著者として有名かもしれないジョージ・グルーブ氏を始めとしてカナダやフランス、ドイツ、イタリア、アルゼンチン、ブラジル、ヴェネズエラといったさまざまな国々や地域の人々が集まっていた。

International Committee International Committeeの顔ぶれ

 この会議は一応非公開ということで、あまり細かい議論の内容をお伝えすることはできないのだが、そのうち何らかの形(おそらくはホワイトペーパーのような)で成果をお目にかけることができるのではないかと思う。それにしても会議に参加して驚いたのは、参加者の間の「温度差」だ。グルーブ氏がいみじくも言っていたが、米国や欧州、あるいは日本のようないわゆる経済的先進国の参加者にはどこか醒めた部分がある。自由なソフトウェアが、社会そのものの在りようを変えるとまでは思っていないことが多いのだ。おそらく、これらの国々での主な担い手が、技術者かそれに準じるいわゆる「理系」の人々であることも影響しているのだろう。

 もちろんこれらの国々でも人によって考え方はさまざまだとは思うが、少なくとも筆者などは、現在の日本のような資本主義社会のありかた自体にそれほど疑問は抱いていない。どちらかといえば自由なソフトウェアの実際的なメリットに興味があるし、また物事を判断する上での軸もそういった有用性に置いている。筆者にとっては、単に自由なソフトウェアの方がハックがしやすくまた成果を共有しやすいから好ましいのであり、ソフトウェア特許にしても、現状ハックの障害となるだけで中長期的にはソフトウェア産業の発展に資するところが少ない、もっと乱暴に言ってしまえば筆者にとって不都合だと思うから反対するのであって、ソフトウェア特許そのものが何らかの意味で倫理的ではないから反対する、と言われてしまうとやや感覚的にずれてしまうのである。言い換えれば、ソフトウェアの自由の追求そのものが何か社会的に善であり、自由なソフトウェアが社会的な公正・正義を実現する武器になる、とまではなかなかリアリティをもって考えられないのだ(もちろん結果的にそうなればそれはそれで喜ばしいことではあるが、少なくともそれは一義的な目標ではない)。

 オープンソースという転換を通過した人間としてはどうしてもそういったある意味で功利主義的な見方しかできないのだが、一方で例えば南米では、自由なソフトウェアの推進運動はさまざまな社会変革の動きと密接に関係しており、近年のかの地における自由なソフトウェアへの大きな期待、高いポピュラリティと支持は、実はこういった現地の感情に深く根を張って養分を得ているらしいのである。もちろん現地でもいろいろな考えを持つ人はいるのだろうが、例えば反米意識が強いことで有名なヴェネズエラのチャベス政権や、選挙で選ばれた社会主義政権として注目されたブラジルのルラ政権はともに公的機関における自由なソフトウェアの受容に積極的であり、こういった存在を抜きに南米での自由なソフトウェア運動を語ることはできない。最近南米では今挙げた以外の多くの国々でも次々と左派寄りの政権が誕生していることもあり、会議の場でもこういった政権との距離の取り方が真剣な議題になりうるのである。ちなみに、筆者は参加できるかどうか分からないが、次回のGPLv3 Conferenceは南米のどこかで開催される予定とのことだ。

 こういうことを書くと、日本では昔懐かしいサヨクや市民運動の焼き直しという感じがあるだろう。筆者としても率直に言ってそういった気分は否めない。個人的には、自由なソフトウェアという概念そのものは価値中立的なものであって、右派や左派といった一定の思想党派に結び付けて考えるような風潮には極力抵抗してきたつもりだし、今後もそうし続けていきたいと考えている。そもそも南米における自由なソフトウェアの支持者は、どうも技術者というよりは社会活動家という感じの人が多いようにも思われた。ただ一応強調しておきたいのは、南米においてはピノチェトのような独裁者や腐敗した政治家が米国の支援を得て長年に渡って実権を握り、(経済理論的には議論の余地があるのだろうが)経済的な失政に加えて一般市民を残虐に弾圧していたという歴史があるということだ。しかもその傷は決して癒えていない。ようするに、彼らにとっては社会的、経済的な不公正や暴力は皮膚感覚のレベルでとてもリアルなことであり、そういった状況下においては「自由な」ソフトウェアというのはとても魅力的に聞こえるのだろう、ということなのである。なんにせよポピュラリティがあるというのは良いことだ。彼らの期待に背くようなことにはならないといいのだが。

 一応ひと段落ついたということで、大会場に戻る。ちょうどDRMのセッションが終わろうとするところだった。個人的には(おそらくこの記事をお読みの大多数の皆さんと同様)現在の反DRM条項には問題があると考えていたので、まさにこのセッションにこそ出席して質問したかったのだが、残念ながらそれは果たせなかった。とはいえ、今後はコメントシステムやディスカッションコミッティーを利用してどんどん意見を述べていくつもりである。

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