わが人生を悔いなく生きるオルタナティブな生き方 永井孝尚さん(1/4 ページ)

マーケティング、ビジネススキル、グローバルコミュニケーション、ライフワークなどをテーマに情報発信するブログ『永井孝尚のMM21』の筆者 永井孝尚さんに、その半生を聞いた。

» 2010年09月30日 11時30分 公開
[構成:鈴木麻紀,ITmedia]

写真三昧の学生時代

 わたしは理科や算数が大好きで、実験が一番楽しみな小学生でした。土曜日は絵の教室に通っていました。基本は理科系で、何かを作るのが好きなのですね。

カメラ部時代 カメラクラブで写真ばかり撮っていたころ

 大学は慶応の工学部。カメラクラブに入部して、冗談で「慶応大学写真部卒業」と言っていたぐらい写真ばかり撮っていました。卒業アルバムの編集長も担当しました。工学部約1000人全員の顔写真、100以上ある研究室やクラブの集合写真、キャンパスの風景や早慶戦、そして三田祭などを撮影し、編集や校正も行いました。総ページ数280ページで予算は1500万円、制作開始は4月で完成期限は翌年3月の卒業式。期限・予算・成果物がきっちり決められ、赤字は絶対許されないというプロジェクト・マネジメントそのものな経験をしました。

 いつもキャンパスを三脚と中型カメラを持って歩いていましたので、卒業式では同窓生に「写真屋さんだと思っていた」と言われました。それはしっかり仕事をしていると見られていたということなので、うれしかったです。卒業式でみんなが楽しそうに卒業アルバムを眺めているのを見て、「1年間かけて作った甲斐があった」と感動したのをよく覚えています。

 写真は社会人になっても続けています。27歳のときキヤノンサロンの銀座・札幌・名古屋で初の個展を行い、その後も4〜5年ごとに個展を開催しています。写真のWebサイトを立ち上げたり、雑誌の取材を受けたり、写真雑誌の記事執筆もしました。真剣にプロの写真家に、と考えた時期もありました。でもプロの方々とお話しすると異口同音に「自分の作品を撮れない」という話を聞きました。「自分は写真作品を撮り続けたいけど、写真で食いたいのではない」と気付き、写真はライフワークとすることに決めました。

 就職先は早い時期から日本IBMに決めていました。アメリカが好きでしたし、尊敬できる企業でしたので。

TOEIC 475点からのグローバルコミュニケーション

 入社は1984年。最初の仕事は海外IBM研究所への日本語対応技術支援でした。当時のTOIECは475点、とにかく英語が課題でした。半分以上の会議が英語でしたし、社内の電子メールも英語なのに、まったくチンプンカンプンだったのです。上司から「これじゃ仕事は無理。早く730点取れ!」と厳命されました。

 そこで「3年以内、25歳までに必ずTOIEC730点クリアする」と決めました。とにかく英語に接する時間をたくさん取ろう、毎日英語のシャワーを浴びよう、と考えました。往復3時間の通勤は、ひたすらTIMEを読み、FEN(現在のAFN)ラジオを聴き続けました。最初はまったく意味が分かりませんでしたが、半年で少し、1年たつころにはだいぶ分るようになりました。

 半年後に社内の短期海外出張条件のTOIEC 600点を獲得。翌年、米国のノースカロライナ州ラーレイに1カ月出張しました。

 2年後に795点を獲得、1年前倒しで目標達成です。仕事を除いても年間1000時間近く英語に接していた成果でしょう。やっと通勤時間に日本語の本を読めるようになりました。

 入社3年目に、アジア各国の言語対応の要望をまとめて、IBM本社と交渉する仕事に変りました。このときにさまざまな国の人たちと仕事をして、根っこの部分で人間は同じだと分かりました。そして、堂々と自国なまりの英語を話すアジアの人たちと接して、「ジャパニーズイングリッシュでもOK」と分かり、英語でコミュニケーションを取ることに抵抗がなくなりました。海外とのやりとりを楽しめるようになったのは、この時期の大きな財産です。

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