徹底的にやる男、その名も“徹”オルタナティブな生き方 斉藤徹さん(2/3 ページ)

» 2011年06月08日 12時00分 公開
[聞き手:土肥可名子、鈴木麻紀,ITmedia]

いたずらっ子、世に羽ばたく

 子どものころはわりと成績は良かったのですが、超いたずらっ子でした。目につくものすべてにいたずらを仕掛けるような、今思うとウザいガキですね(笑)。でも、小学校から塾に通って、中学受験をして私立校に入学し12年も勉強が続いたので、大学では徹底的にエンジョイしました。毎日、大学の反対側にある雀荘に登校して、学校に行くのはメンツが足りなくて誰か探しにいくときぐらい。学生時代だけでヤクマンを40回あがりました(笑)。さらに女の子と知り合うために友人とシーズンスポーツのサークルを作り、彼らと毎晩飲み歩きましたね。

 専攻は……、機械科、確かエンジン系ですが、何を研究したかは今もって分かりません(笑)。そのあたりは、福田(ループス副社長 福田浩至氏 オルタナティブ・ブログで「ショック・アブソーバー」を執筆中)の方が詳しいです。同じクラスで、彼は1番マジメなグループ、僕は1番不真面目なグループを形成していましたが、ある日、麻雀のメンツ探しでたまたま声をかけたのが縁で、それからの付き合いです。

 とにかく大学では“学び”にまったく興味がなかった。きっとなめていたんですね。持ち込み可の試験にHotDogPressなどの雑誌を持ち込んだり、実験レポートを古語的に「それを何かとたずぬれば、こう答ふ……」ってな調子で書いて提出したり。まったくもってふざけたやつだったんです。まぁ、何をやっても「斉藤だからしょうがない」って。

 そんな調子だったので成績は最悪、1年留年して。でもおかげさまで、日本IBMに入社できました。というのも、その年にIBMが2000人という伝説的な大量採用を行ったんです。正直、4年で卒業していたら絶対入れませんでした。遊び仲間が他にも2人ほど、すべり込ませてもらいました。IBMさん、すみません。

 IBMに入社してからは、まじめに勉強しました。大学時代思いっきり遊んだので、逆にがんばれたのかも。でも、入社してすぐに配属されたのは、外国人が半分くらいいる部署でした。僕、英語は苦手科目でしたが、とにかく新入社員が多いので、配属はわりと適当だったような。同じ部に、斉藤徹という同姓同名の新人がいたくらいですから(笑)。

 そんな職場だったので、仕事をがんばっても、英語ができないと評価されない。挫折感も味わいました。本来の仕事で評価されなかった分、ハッキングやコピープロテション破りなどに情熱を傾け、機械語やアセンブラでコーディングしていました。どこかに情熱をもたないとダメなキャラなのでしょう。

 3年目に、開発部門から営業部門へ異動になりました。そのときはラストチャンスと思い、むちゃくちゃ勉強しました。プロジェクトも1番困難でチャレンジングなものを選び、仕事でも評価されるようになり、会社が楽しくなってきました。26歳位のころかな、ようやく学生気分から抜け出したというか、だんだん、まじめになってきたというか。本もよく読んで、視野も広がりました。

独立のきっかけは『竜馬がゆく』

 このころ、司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』を読みました。まじめに、かなり影響を受けました。ソフトバンクの孫さんもこの本に影響を受けたっておっしゃっていますけれど、起業家には多いんですよ、この本というか、竜馬の熱烈なファンが。

 ベンチャー精神を刺激するのでしょうね。僕も20代で何かしたいと思うようになりました。会社からも評価されていたし、IBMのことも大好きでしたが、このままでいいのかなと。このまま行けば役員になれるかもしれないけれど、敷かれたレールの上を歩いているだけじゃないか。今になって思えば、それは大変誇らしい、素晴らしいことだと心から思います。が、当時は若気の至りで「60歳になって人生を振り返ったときに、自分の人生だったと言えるのだろうか」と思いまして。

 また、IBMには内緒でしたが、休みの日に副業でシステム設計やプログラミングをやっていまして、IBMからもらう給料より多かったんです。そっちの収入の方が。当時はスーパープラグラマーで、10人月ぐらいの仕事は1月でこなしていました。今ではその面影もありませんが(笑)。そんなこともあり、思い立ったら吉日キャラだった僕は、29歳でIBMを辞めて独立し、フレックス・ファームという会社を立ち上げました。

 ダイヤルQ2がブームになりはじめたころで、そのサーバやソフトウェアを開発する仕事を始めました。日の出の勢いで会社は成長、1年で月商1億円、1人で始めた会社が40人になったんです。ところがNTTのダイヤルQ2規制から歯車が狂いはじめ、資金繰りが厳しくなってきた。瀕死の状態が2、3年続きました。会社って資金ショートしてもすぐに潰れるわけじゃないんですよ。粘りさえあれば何とかなります。その辺のノウハウは実地でずいぶん学びました(笑)。

 結局、死地をさまよいながらも生き続けたフレックス・ファームは、2000年のベンチャーバブルのときによみがえりました。携帯コンテンツ変換エンジン、X-Servlet(クロス・サーブレット)という製品を世に出して注目を集めたんです。当時は本当にバブルでした。インテル、メリルリンチ、住友商事、三菱商事、光通信、ソフトバンクなどから30億円の出資が集まったんですよ。ただ、結果的にはそれが原因で会社から追い出されることになりました。

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