株で儲ける究極はIPOではないかFrom Netinsider(28)

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» 2001年05月08日 12時00分 公開
[Vagabond,@IT]

<vol.28の内容>

株式会社まぐクリック 取締役 経営企画チーム マネージャー 島影将氏(1)

わずか32歳で2社のIPOに携わった株式会社まぐクリック取締役:島影将氏へのインタビューを3回にわたってお届けする。今回はまぐクリックへ入社するまでの経緯について紹介する




■■ トップインタビュー ■■
株式会社まぐクリック
取締役 経営企画チーム マネージャー
島影将氏(1)




生涯のうち10社ぐらいのIPOに挑戦して、
そのうち1社でも成功すれば上出来と思っていました。
しかし、わずか32歳で
2社の公開に携わることができました


 短期間でブランド認知度を飛躍的に向上させ、併せて盤石な財務基盤をも確立する方法として、IPO(新規株式公開)ほど強力な選択肢は存在しないだろう。

 東証マザーズ、大証ナスダック・ジャパンの2つの新興市場が設立されたことで、従来に比べてIPOのハードルが低くなったといわれている。しかし、主幹事証券会社、ベンチャーキャピタル、監査法人、弁護士などのさまざまな職能の専門家と意思統一をはかり、社内体制を整備し、長期間にわたってねばり強く金と時間をかけて問題解決にあたらなければIPOの成功はおぼつかないことは、賢明な読者ならすでによくご存じのことだろう。現在ではネットバブルは終えんし、公開延期企業も頻出しはじめている。

 1999年8月27日、独立系ISPとしては日本で初めて店頭市場に株式公開したインターキュー株式会社(証券コード:9449 、 2001年4月1日、商号をグローバルメディアオンライン株式会社に変更)は、公募価格4200円に対し初値が2万1000円と5倍の伸びを記録、同社は一夜にして時価総額1200億円企業に変貌した。

 そして昨年(2000年)9月5日には、ナスダック・ジャパン市場でインターキューの連結子会社である株式会社まぐクリック(証券コード:4784)が上場し、設立1年未満の企業がIPOする初めてのケースとなった。

 この歴史的ともいえる2つのネット企業の株式公開実務においてIPOプロジェクトチームの主要メンバーとして活躍し、現在はまぐクリック社の取締役を務める島影将氏が、2001年3月2日、渋谷インフォスタワー10階でネットインサイダー編集部のインタビューにこたえた。

 インターキューの店頭公開では社内公開担当者の全員が未経験者だった苦労話などをはじめとして、プロジェクトチームの人数と概要、IPO成功の最重要点、店頭とナスダック・ジャパンの市場の違いなどに関して語る。

株式会社まぐクリック
http://www.magclick.com/

30代前半で人生の目標を達成

――島影さんは、インターキュー、そしてまぐクリックという2社のIPOに深く携わり、そして2社とも成功させています。普通、証券会社の公開担当者や、VCの社員でもない限り、こんなに連続してIPOに関係して、しかも成功させることはあまりないと思うのですが。

島影:最初に誤解のないように申し上げておきたいのですが、IPOを成功させたのは私ではなく、あくまでも会社全体が一丸となって成功させたということです。私は単に、その中で1つの役割を担っていたということにすぎません。インターキューもまぐクリックも、皆の努力が結集されて、無事IPOを果たしたわけですが、私は幸運にも、たまたまその現場に携わることができたということだと思います。

 IPOにかかわる業務をやりたい、そして実際にIPOの成功に携わりたい、というのが公認会計士の受験を始めるころからの私の夢であり目標でした。しかし簡単に成功するものではないし、1件あたり数年もの歳月がかかります。だから、まあ60歳までが私のビジネスライフだとすると、その間に10社ぐらいトライして、そのうち1社でも成功すれば上出来だろうと思っていました。

 つまりベンチャーキャピタルと一緒ですね。10社投資して1社公開できればファンドとしてはそれで成功、みたいな……。しかし、その目標を、わずか32歳で2回も達成することになりました。次はどうするか、新たな目標を設定しているところです。

――そもそも、どういう経緯でネットベンチャーの公開を手がけるようになったんですか?

島影:大学は千葉大の農芸化学科を卒業しました。高校時代、大学受験にあたり、「これからの時代はバイオテクノロジーだ!」なんて思って大学を選びました。当時はインターネットなんてありませんでしたからね。大学に入ったものの、結局はあまり真剣に勉強しないまま卒業してしまいました。学生時代はバブル真っ盛りだったこともあり、1991年に卒業するころには、世の中の仕組みやビジネスが見える仕事に就きたいという希望を持つようになりました。

 そこで金融や証券会社がいいだろうということで、野村證券に入社させていただきました。そして最初の配属先が、大阪の上本町支店で、個人投資家向けの営業を担当しました。

株でもうける究極はIPOではないか

――野村證券での仕事はどうでしたか?

島影:どうやったら株でもうかるのかということをいつも考えていましたね。一方、当時の営業の現場では、支店長や営業課長が決めた銘柄を、とにかく個人投資家の方に販売するというスタイルが残っていました。いまではだいぶ変わったようですけどね。自分ではこうやればもうかるのに……と考えても、組織で動いていましたから、自分の思うようにはできなかったです。

 ちょうどそのころ、新規公開株の入札を勧めたり、また社員持ち株会で10年間コツコツと積み立てたわずかなお金が公開で億万長者になったケースがあるというような話を聞いたりして、株でもうける究極の方法は「IPO」ではないかと考えるようになりました。

 しかしIPOをやりたいといっても、全然知識がなかったので、まずは財務・会計の知識が必要だということで、本格的に勉強をするため退職しました。そこで選択した勉強が「公認会計士の受験」でした。

公認会計士試験の不合格が転機に

――試験は合格したんですか?

島影:1年半かなり気合いを入れて勉強したんですが、落ちました。しかし、落ちたことには悔いはありませんでした。というか、「あれだけ勉強して落ちたんだから、しょうがないだろう」と納得できるぐらい勉強しましたので。

 会計士受験の専門学校では、周りの人があきれるほどの熱心さだったと思います。それに、もともとIPOのための必要知識として公認会計士の勉強を始めたわけですから、公認会計士の資格はゴールではなく単なる目的にすぎないですし、必要な知識は試験勉強の過程で身に付いたんだから、と思いました。

 なんて、強がりをいっていますが、本当は、落ちたときは相当ショックでしたね。忘れもしない、大蔵省(現財務省)へ合格発表を見にいって自分の名前がなかったときは、泣きそうになりましたよ。「あれだけ勉強して落ちたんだから、やっぱり自分はばかなんだな」って(笑)。

 でも、いま振り返ってみれば、あそこで受かっていたら、どこかの監査法人にでも就職していたかもしれませんから、インターキューやまぐクリックのようなエキサイティングな会社の公開に直接内部からタッチするような幸運は決して訪れなかったと思います。

 知識は身に付けたのだから、あとはIPOに携われるような会社を探そう。そう考えて、「日経ベンチャー」「ベンチャークラブ」「日経産業新聞」などを読んで、ベンチャー企業探しを開始しました。

条件は「従業員10人以下」

――求人誌を買って、募集している会社へ履歴書を送るといった、通常の就職活動とはかなり違いますね。

島影:そうですね。本当に入りたい会社があれば、求人していようがいまいが関係ない、自分を売り込んで無理やりでも入れてもらおう、なんて考えていましたね。求人広告を見てそのまま応募すれば、応募する側にとっては単純に競争にさらされますからね。会社側からしてみれば、複数応募にきた人のうちの1人にしかすぎなくなりますよね。つまり選ばれる側になるわけです。

 しかし、当時は、自分が会社を選ぶ側だという気持ちでやっていました。そして、当時の会社選びの条件としては、

  1. 従業員が10人以下であること
  2. 売り上げが昨年比で2倍以上伸びていること
  3. 株式公開をする意向があること

でした。

――1つ目の条件の「10人以下」というのは、どういう理由ですか?

島影:それまでに野村證券で大企業とはどういうものかを見てきたつもりです。「鶏口となるも牛後となるなかれ」の言葉どおり、小さい組織で、全部の仕事ができる会社に入りたいと考えました。会計士の勉強をしましたので経理関係で就職を希望していたわけですが、勉強の次は、実務を全部一気に覚えてしまおう、と考えたわけです。

 いろいろと情報収集をして、これはと思う会社に片っ端から電話しました。「経理の仕事をさせてもらえないか、いずれは株式公開の仕事を担当させてもらいたい」という感じですね。そのうち幾つかの会社を訪問し、その結果、入社したのが、非接触の認証システムの開発をしていた葛飾区の「センサーテクノス」という当時、役員・従業員全部合わせて7名の小さなベンチャー企業でした。

センサーテクノス株式会社
http://www.sensortechnos.co.jp/

――結果的には同社では公開の夢は果たせなかったわけですね。

島影:そうですね。いまのところIPOには至っておりませんが、それはそれとして、人数の少ない会社でしたので、仕事の始まりから終わりまでの業務フローの全体にタッチすることができました。総務・経理を私がすべて1人でやっていましたので、会社はこうやって回っていくのか、ということを学びました。

 公認会計士の受験で簿記の勉強はしましたが、そうはいっても経理の実務経験なんてありませんし、ましてや給与計算なんて勉強すらしたことがなかったわけですから、本を買って1からやりました。「社会保険の手続き」とか「契約書の書き方」とかいろいろな本を読みあさり、税務署や社会保険事務所など、しょっちゅう電話して質問していましたね。わずか半年でしたが、大変中身の濃い実務経験を積むことができました。

「世の中が閉まっていく」という実感

――センサーテクノス社を退職した理由は何ですか?

島影:センサーテクノス社には1997年の2月に入って8月まで半年間在籍していました。そのときは、第何次のブームだったのかは忘れましたが、1つのベンチャーブームが終わろうとしていたころでした。世の中や経済が少しずつ閉まっていくのではないかという感じがしました。その年の11月には北海道拓殖銀行が倒産しました。

 センサーテクノス社の技術は、大変ユニークな素晴らしい技術だと思いますが、それを市場に売り込むためのマーケティング力は、技術の優秀さと比べてしまうと少々弱かったですね。売り上げもあまり上がらず、銀行の融資が少しずつ厳しくなり、「このままではマズイな」と思っていたときに、たまたまふらっと近所の本屋に立ち寄ってみると目の前にリクルート社の求人情報誌『B-ing』が置いてありました。

 手に取ってみると「インターキュー」と「フォーバルクリエーティブ」の求人が出ていて、双方とも「IPOに向けて経理の人材を募集」とありました。そこで両社に履歴書を送ったのです。先ほどお話ししたように、私の就職活動のスタイルは求人誌を利用しないというスタイルだったので、いま思えば、何でそのときだけ取り上げたのかは不思議ですね。そのとき初めて『B-ing』を買いました。

今後の産業の主流になり得るのではないか、ということでインターネットを選択

――双方ともネット系の会社ですが。インターネットということに、何かこだわりがあったんですか?

島影:わたしが本格的にインターネットを使うようになったのは、センサーテクノス社に入ってからです。社内にネットに詳しい技術者がいて、とても親切に教えてくれました。逆にいうとそれまではネットのことはよく分かりませんでした。ただ、今後の成長産業はネットになっていくんだろうなとは漠然と思っていました。

 石炭、繊維、鉄鋼、自動車、半導体という具合に、産業の歴史を振り返ると時代とともに、成長産業は移り変わっていきます。IPOを成功させるには、その時代の成長産業にいた方が有利です。極端な話、いま、石炭産業でIPOするのは、とても厳しいのではないでしょうか?

実務経験がないから採用できない、フォーバルクリエーティブ社不合格

――2社の面接の結果はどうでしたか?

島影:フォーバルクリエーティブ社の方は、IPOの実務経験がないということで不採用でした。逆にインターキューは即内定が出ました。入ってみてよく分かりましたが、全然人が足りなかったですよね。だから実務経験のない私でも採用されたんでしょう(笑)。

 しかし実は、プロバイダはもうからないなんていわれていましたので、インターキューは本当にIPOできるんだろうか? またセンサーテクノスと同じようになってしまわないか? なんて思いました。そこで、いろいろと調べてみると、一部の方からは、大変良い評価を得ていて、特に社長の熊谷の評判が非常に良かった。それでインターキューの入社を決定しました。

――なるほど、しかし結果的にはフォーバルクリエーティブ社は、まだIPOを果たしていませんね。

島影:そうですね。でも売り上げはインターキュー以上に上がっているし、会社としての方針がいろいろあるでしょうから、どっちが良いとはいえませんが、でもいま考えると、あそこで落としてくれたから、いまの自分があるということでしょうね。

株式会社フォーバル クリエーティブ
http://www.forval-c.co.jp/

インターキューIPOプロジェクトチーム誕生

━━さて、インターキューに入社して、いよいよIPOプロジェクトに参加することになるわけですね。インターキューの株式公開を成功に導いた、チームの体制を教えてください。

(第2回につづく)


島影 将(しまかげ かつし)氏 略歴
1968年2月23日生  
1991年3月 千葉大学園芸学部卒業
1991年3月 野村證券株式会社入社 上本町支店営業課勤務
1994年10月 大宮西口支店営業課勤務を経て、野村證券を退職
1996年7月 公認会計士試験を受験するが不合格
1997年2月 アルバイト生活を経て、技術系ベンチャー企業「センサーテクノス株式会社」入社
1997年8月 「インターキュー株式会社」入社、社長室勤務
2000年4月 「株式会社まぐクリック」入社、取締役就任(現在に至る)

(取材:Netinsider編集部)


<本記事は、2001年3月22日の【NETINSIDER】(No.98)に掲載されたものです>

次回「From Netinsider Vol.29」の掲載は5月15日の予定です

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