柳生新陰流プロジェクトマネジメントソフトウェア開発をちゃんと考える(13)

切り合いならば相手が打ち込みたいときに打ち込みたいところに打ち込んでもらえるようにする。プロジェクト・マネージャならば、メンバー自らが問題を発見して、それを解決したくなるようにマネージャ自身は「引く」こともあるかもしれない。

» 2007年09月11日 12時00分 公開
[山田正樹,メタボリックス]

 いきなりだが「殺人剣」である。われわれは日々すきあらば敵を切ってやろうと、自分は敵に切られまいと立ち回っているわけだ。敵とはその人によって、技術であったり、ややこしい人間絡みの問題であったり、組織であったり、ライバルだったりするだろう。敵を切るためには、自分が切られないためには、1つでも多くの技を身に付けねばならない。本やWebサイトにはそんな技が無数に紹介されている。ライフ・ハックだ、Rubyだ、コーチングだ……。

 まぁ、しかし、何だ。いくら技を身に付けても、まだ自分の知らない技がある。もし自分の知っている技では対応できない難題が降り掛かってきたら、プロジェクト・マネージャの自分はどうすればいいんだ。ええい、その前にどんな問題も起きないように綿密詳細な計画を立てて、500×500の要求追跡マトリクスを書いてメンテして、メンバー全員の進ちょくを1時間単位で管理して、守れないやつにはびしびしと……。

 もうすでに、その時点で敵にからめ捕られてしまっている気がする。負けである、多分。

 このような(心の中の)剣を「殺人剣」と呼ぶ。個別の技と力において敵を圧倒できれば勝つ。まったく予測の立たない、何でもありの状況では勝つかどうかは五分五分だ。そうではなく、どんな状況でも勝てる、とまではいわなくても対応できる「活人剣」とは何か、というのが清水博の「生命知としての場の論理 - 柳生新陰流に見る共創の理」(中公新書、中央公論社、1996)である。もとより清水は剣術者ではなく、生命科学者である。

 本書に限らず、清水の著作は分かりにくい。しかし、何とかそのいわんとする(だろう)ところを一部なりとも伝えられればと思う。

 まず清水の問題意識は以下のようなところにある。

「場と場の要素が自発的にうまく辻褄を合わせることによって新しい意味を創り出すことは可能か、どうすればうまく行くか」

 これを清水は「リアルタイムの創出知」と呼ぶ。われわれならば、まさにプロジェクトやプロダクトが自律的に展開し、成功するにはどうすればいいか、ということだ。本書ではそのケース・スタディ、ないしはメタファとして即興劇から剣術まで(われわれでいえばプロジェクト運営から顧客との交渉まで?)を取り上げている。場といっても必ずしも協調的なものばかりではなく、命がけの切り合いまで含まれているのである。

 場におけるリアルタイムの創出知は次のように起きるのではないか。

(1)自分を全くの無限定な、自由な状態に置く

 例えばプロジェクトが難題に突き当たったとき、すべてを忘れてしまう。いままでに習い覚えた技も、雑誌に載っていたことも、部長や顧客がいっていたあれやこれやも、練りに練った戦略も。どんな方法論にも頼らない。

 交渉の場ならば、自分のすべてをさらけ出してしまう。守りはすべて捨てる。柳生新陰流では「無形の位」という構えのない構えになる。

 とはいえ、自分が向かう方向は意識の深いところにはっきりと持ち続けなければならない。ビジョンと呼んでもいいかもしれない。

(2) 物語を作る

 無限定な状態のままであったら、多分何も起こらないか、たちまち打ち込まれてしまうかのどちらかだろう。物語を作るということは仮説を立てるということだ。制約の全くない状態に制約を作ると考えてもよいし、白紙にシナリオを書くと考えてもよい。物語には当然、自分だけでなくすべての登場人物が登場する。これを柳生新陰流では「先々の先」 と呼ぶ。

 シナリオを書くだけでは何も動きださない。そのシナリオに従って、みんなが動いてもらえるように「迎え」るのである。切り合いならば相手が打ち込みたいときに打ち込みたいところに打ち込んでもらえるようにする。プロジェクト・マネージャならば、メンバー自らが問題を発見して、それを解決したくなるようにマネージャ自身は「引く」こともあるかもしれない。

 物語は仮説であり、動きであり、計画を立ててみんなをそれに従わせることとはまったく違うコトに注意。また実際に迎えるには、大変な勇気が要るものだということにも。

 このときに難しいのは相手を「見る」ことだ。相手に先入見を持ってはいけない。「こうしてくれるはずでしょう」と思い込みで動いてみても、相手はまず間違いなく違う手で来る。かといって目をつぶってもいけない。相手の表面ではなく、全体を見る。これを「見の目ではなく観の目で見る」という。「いつでも上から見下ろす」「ゆったりと心を大きく持つ」「細目にしてうらやかに見る」「心の目で見る」「直観で捉(とら)える」などといわれる。

(3) 物語が動く(リアルタイムの創出知)

 物語は自分1人が作っているわけではない。場に参加している誰もが、それぞれの物語(仮説)を持っている。そしてそれがお互いを迎え、合致した部分で場としての物語が動くことになる。柳生新陰流ならば「敵の太刀に自分の太刀を乗せて、人中路[注]をまっすぐ斬り徹す」。


[注] 人中路とは自分の体の垂線である。切る対象は実は敵ではなく、自分なのである。


 独りよがりの物語ならば誰も動かないだろうけれど、全員があらかじめ同じ物語を持つ必要はない。それぞれの物語(仮説)が一部ずつかみ合って、また次の物語を作り出していくことになる。それがうまくいけば「間が合う」わけだ。しかし、1人1人にとっては自分の仮説が正しかったとは限らない。自分の迎えを受けて相手が動き、その動きを解釈して新しい仮説(物語)を作る。ここで前の仮説にとらわれない(壊す、忘れる)ことと、場全体の物語の動きに応じて新しい仮説をその場で作り出せることが重要になる。

 このようなサイクルを繰り返して、「場」の中でリアルタイムに「知」(価値、意味)が作り出されていくのだろう、というのが清水の試論である。確かにここで創出されるものは、場に参加している誰か1人のものではないし、同時に誰のものでもある。

 柳生新陰流のある兵法書にはこのサイクルを「風・水・心・意・空」と表しているものがある。風とは風のように敵に対面し、水とは水のように敵の動きに合わせ、心とは物語を作る心の動き、意とはその一番奥にあるビジョン、空とは実際の太刀の動きのことだという。

 「風・水・心・意・空」は Plan ‐ Do ‐ Check ‐ Action のサイクルと似ているようではあるけれど、本質的に異なっている。 PDCAは個体と環境さえあれば成立する。たとえ主体が組織であったとしても、個人である場合と変わらない。しかし「風・水・心・意・空」は1人では成り立ち得ないものだ。

 今回はいささか抹香臭い話になってしまった。しかし剣術者は「活人剣」とかいいながら、最後はやっぱり相手を切ってしまうのである。すごいことではあるなぁ……。

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