土曜日。ベッドサイドの目覚ましが鳴る。
坂口はぼんやりと手を伸ばして時間を見た。10時だ。
今日は久しぶりに谷田と出掛ける約束をしている。待ち合わせは午後3時なので大分余裕はあるが、独身の坂口には休みの日にしかできないこともいろいろある。掃除、洗濯……などなど。
いつもは目覚めの良い坂口であったが、今日はなぜかベッドから起き上がれない。体の節々が重く、痛い。みけんには重石が載っているかのような鈍痛。
坂口 「風邪かぁ……。おれデート行けるかなぁ」
意を決して起き上がったものの、めまいを感じて再びベッドに横になる。額に当てた手の甲に熱が伝わる。どうやら熱が出ているらしい。谷田の顔が浮かんだ。「楽しみにしていますね!」というメール文面を思い出す。
坂口 「仕方ない……メールをしよう」
坂口は携帯を手に取ると谷田にメールを送った。
『ごめん。風邪をひいてしまったみたいだ。熱があるんだ。代わりに来週、一緒に出かけよう』
坂口はそのまま、ベッドにもぐりこんだ。ボーっとした頭の中に谷田の顔が浮かんでいたが、そのうち意識を失うように眠り込んだ。
そのころ、谷田は行きつけのサロンに向かっていた。谷田の髪の毛はストレートだが1カ月に1度はサロンで長さを整え、トリートメントしてもらうのが習慣なのだ。
予約は10時30分。サロンにそろそろ着こうかというとき、携帯のメールに気が付いた。坂口からだ。待ち合わせの確認かと思い、急いで内容を見る。
谷田 「(え……、熱があるの?)」
坂口に会えないと分かり、悲しい気持ちになったが、すぐに坂口の体が心配になった。
谷田 「(1人ぼっちで熱を出して寝てるのって、心細くないかな……)」
サロンに着いてカウンセリングが始まった。いつもはスタイリストとの会話を楽しみながら、ヘアスタイルを相談しているのだが、今日はそれも上の空で相づちを返す。坂口のことが気になったのだ。
カウンセリングが終わり、シャンプー台へ案内された。
谷田 「(お見舞い、ううん、看病に行こう)」
そう決めると、谷田はシャンプー台で頭を後ろに沈め、アシスタントに髪の毛をゆだねた。
次に坂口が目が覚めたのは14時だった。背中が汗でぐっしょり濡れている。眠ったせいか、先ほどよりは少し気分も良くなったが、相変わらず体は重く痛い。のどの渇きを覚えて、のろのろと起き上がってキッチンに向かう。グレープフルーツジュースをコップに入れ、一気に飲み干した。
汗で濡れたパジャマを脱ぎ捨て、新しいものに替える。そして再度、ジュースをコップに入れた。と、そのとき、「ピンポーン」とチャイムが鳴った。
坂口 「(勧誘か? たずねてくる人なんていないしな……まぁいいか)」
居留守を決め込み、ジュースを口にした。すると「ピンポーン」と再びチャイムが鳴った。
坂口 「(ずいぶんしつこいなぁ。まぁいい。勧誘なら断ればいいし)」
インターフォンを取ると、はいと気のなさそうな声で返事をした。
谷田 「あの……、わたし……です」
坂口 「えっ?」
谷田 「心配だったから……、私がいたらゆっくりできないって思ったけど……、でも心配で」
坂口 「あ、いま開けるよ」
オートロックを解除すると、ジュースをあわてて飲み干し、先ほど脱ぎ捨てたパジャマを洗濯機に放り込む。
再びチャイムが鳴った。ドアを開けると、谷田が立っていた。ふわっと甘い香りが漂う。
谷田 「すみません……。来ちゃいました……」
坂口 「あ、いいよ。散らかっているけど、あがって」
谷田 「おじゃまします」
部屋のソファに座る。沈黙を破ったのは谷田だ。
谷田 「坂口さん、私がいたら気になっちゃうと思うんですけど、でもベッドで休んでいてください。食欲ないでしょうけど、少しは食べられるようなもの何か作りますから」
坂口 「あ、あぁ。ありがとう」
坂口はベッドにもぐりこんだ。谷田はキッチンに向かい、何やら準備を始めている。音を立てないように気を使っているのか、時々カタカタと調理器具の触れ合う音がかすかに聞こえる程度だ。
坂口 「(落ち着くな……)」
しばらくして谷田がリビングに顔を出した。優しくほほ笑むとベッドサイドに近づいてきた。
谷田 「できたんですけど、坂口さんが食べたいときにいってください。私が帰った後でも、温めるだけで大丈夫なようにしてありますから」
そういうと谷田は坂口の額に手を当てた。手のひらの冷たさが坂口には心地良かった。
仕事の慌ただしい時間はここにはなく、ただゆったりと優しい時間が流れる。
坂口は谷田の顔を見た。
そして起き上がり、髪の毛をなでる。たまらなくいとおしくなった。そのまま彼女の頭を片手で抱き寄せ、自分の胸に引き寄せる。
玄関を開けたときに漂った甘い香りが再び坂口の鼻をくすぐり、ほおとほおが触れ合う。
坂口 「風邪……うつっちゃうね」
谷田 「ううん……大丈夫です。私、結構丈夫なんですよ。風邪ひいてもすぐに治っちゃうんです」
坂口 「じゃあ、うつしてもいいよね……」
隣にいてくれてありがとう。坂口は心の中でそっとつぶやいた。
抱き寄せた手を一瞬緩めると、坂口の唇が谷田の額に触れた、さらにほお。そしてゆっくりと唇に近づく。やわらかく甘い時間。谷田はゆっくり目を閉じた。
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