適材適所の人材育成をしよう何かがおかしいIT化の進め方(36)(2/4 ページ)

» 2008年03月26日 12時00分 公開
[公江義隆,@IT]

ティータイム

 筆者は会社を定年で辞めてから、幾つかの大学や大学院で講義やセミナーをやらせていただいた。

 会社にいたときの上司・部下や取引先という関係でない、若い人たちとの関係で学ぶことも多かった。

 在職中は一応大企業と呼ばれる会社に応募してくる、それなりに名の通った学校の卒業生を、会社の価値観の枠で採用していたのだから、いま思えば実に画一的な人たちの特異な集団を相手にしていたのかもしれない。40年間普通と思っていたことが、実はそうでないと60歳を超えて気が付いたが、少し遅過ぎたのかもしれない。

 人集めに奔走していた課長時代、当時の人事部長から「君なぁ、そんな賢そうな奴ばかり集めてどうするつもりや?」と言われたことを思い出した。長年シベリアで生死の境をさまよう抑留生活を送った人である。表現が適切でないかもしれないが、社会的認知度の低い大学の学生は実に多様だ。中には本当にとんでもないのもいるが、「自分」が先にあるエリート学生より、「他人」のためにという気持ちが強い優しい気持ちの人が多いように思えた。

 コンピテンシーでいえば、「顧客指向性」はこちらの方が高い。氷山モデルの水面上にある学力では劣るのであろうが、小・中・高の勉学の過程で、ちょっと何かにつまずいてそのままになってしまったといった感じで、幅広い発想をする賢い人は結構いた。しかし、目標を達成する意欲である「達成指向性」や「自信」のレベルが低いようだった。これが原因だったのか結果としてそうなったのかはよく分からない。

 また、これは最近の全体の傾向かもしれないが、「人から褒められた・しかられた」経験が極めて少ないようだ。「甘やかす」のと「褒める」のは違う。「しかる」のと「感情的に怒る」のは全く異なる。そして「しかる」があって「褒める」価値が出てくる。

 「褒める・しかる」は、相手に対する関心の度合いに関係する。どちらが原因か結果は分からないが、人同士の間でお互いを認め合うということが少ないということになる。「チームワーク」や「対人影響力」にかかわるコンピテンシーの育成に関係していると思う。

 古来、草食動物は群れて暮らす習慣の中で、群れで知恵を共有してきた。チーム力が強みの日本人は、米国をまねた壁で囲んだ個人スペースはすぐ廃止すべきだ。個人主義の悪しき誤解の産物だ。人のコミュニケーションにおいて言葉の占める割合は2割以下である。「顔を突き合わせる」という大部屋効果をいま見直すときではないだろうか。

社員の適性把握は企業側でやるしかない

 いま、企業に求められているのは、こんな人たちを1日も速く、1人前の社員に、技術者に、あるいは管理者に育て上げることだ。

 そのために、いかに早期に社員の適性を見極め、それに基づいた育成と適材適所の人事を行えるようにするかにかかっている。

 Aさんには企画という仕事に対する適性があるのか、B君にはマネージャの資質があるのかと周囲に問うてみても、衆目の一致する場合もなくはないが、多くの場合は「思う・思わない」のレベルの話でとどまりがちだ。

 1つの仕事をうまくやり遂げるためには、複数の能力の組み合わせが必要である。それぞれの仕事ごとに、どんな能力の組み合わせが求められるのかにブレークダウンして、そのレベルで多面的に見る必要のある問題である。

 まだ人材育成の考え方の突破口が見付からずに思い悩んでおられるなら、以下に述べるコンピテンシーの考え方を一度検討してみてはどうだろうか。

 一部に成果主義の方法のように誤解されたりしているが、これは使い方の問題だ。コンピテンシーは人間の特性のとらえ方の1つの考え方以外の何ものでもない。

 随分以前の話になるが、かつて筆者が在籍していた会社で、経営改革の中核的な施策の1つとして、アカウンタビリティ(成果責任・結果責任)と、コンピテンシーの考え方に基づく組織機能の明確化を通じた人事制度改革が行われた。

 これは組織と人を根幹から見直すものでもあるので、それなりに大変であったが、その過程で、要員の育成のための「適性の把握や見極め」などの判断・評価が、従来の感覚的なレベルから、一歩突っ込んで考えることができるものになったとの感触も得られた。当時を振り返りながら、この観点から述べてみたい。

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