“変化”を模索する世界(後編)何かがおかしいIT化の進め方(42)(1/3 ページ)

世界同時不況のいま、各国が光明を求めてあらゆる方向性を模索している。長年、海外に頼ってきた日本も、そろそろ自立・自律を目指すべきだろう。ITを通じて世界にかかわるわれわれは、いま何をなすべきか、深く考えてみたい

» 2009年04月02日 12時00分 公開
[公江義隆,@IT]

危機認識と自立・自律の覚悟

 実体経済の能力を超える強大な軍事力を背景に、「唯一の超大国という信用に基づいたドル」が支えてきた巨額の借金と、「借金を重ねることで作り出された米国の巨額の消費」によって支えられてきた世界経済が崩壊した。今回の経済危機は、金融システムの破たんを引き金に、ドルが作り上げてきた「巨大な消費バブルの崩壊」と考えるべきであろう。

 米国、つまりは“ドルの信用”は大きく失墜したから、これまでのように借金で消費を拡大し、ドル札を印刷して世界にばらまいて穴埋めする、といった方法はもう受け入れられない。つまり、米国が従来の消費水準を取り戻すことは容易なことではないし、ほかの国が米国による消費の穴埋めをすることも短期的には難しい問題だ。世界の景気の回復はそう簡単なことではない。

 数字については誰にも説明し切れる問題ではないが、麻生首相は「全治3年」といい、日産のゴーン会長は「2007年水準の自動車生産に戻るのは7年後」といった。 オバマ大統領は就任演説で、230年前の独立戦争まで歴史をさかのぼり、「Remaking America」(アメリカを作り直せ)という言葉まで使って、建国時の志を国民に訴えた。「建国来の最大の危機、希望と美徳しか生き残れない、どんな嵐にも耐えよう」というのが彼の認識なのであろう。

 第2次世界大戦後、日本は冷戦体制が幸いして、米国の核の傘の下で直接戦争に巻き込まれることもなく、経済に専念して経済大国にのし上がれた。しかし、軍事のみならず経済も、また文化までもが米国依存であった。その米国の退潮が始まった。

 明治維新後、日本は西欧を手本に、特に第2次世界大戦後は“無定見”といえるほどに、多くの面で米国に追従する道を歩んだ。しかし、それは今後は採れない道である。「自らの道を、自ら考え進んでいく」ことが必要になる。国にも個人にも自律・自立と、これに加えて、外から尊敬される考え方や言動と、それらを外へ説明できる能力が必要になる。グローバル化は、外に同化することではない。自らの特徴を生かし、明確なアイデンティティを持ち、かつ、それを周囲に認めさせていくことが必須なのだ。

 「世界の主要な文明は、米英、仏独、露とギリシャ、中国とシンガポールなど、2カ国以上の国が含まれるが、日本は孤立しており、いかなる他国とも文化的に密接なつながりを持てていない」(S・ハンチントン著『文明の衝突』/集英社/1998年刊)──きわめてユニークな存在である日本は、それを特長にできるか、周囲にとって不可解な国に終わるかの瀬戸際にあるのかもしれない。

 台湾総督府で、砂糖工業によって台湾の経済基盤を固め、台湾の人たちから高い信頼を得、その後、京都帝国大学教授、東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長、さらに国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造博士は、諸外国に日本を理解してもらうために『Bushido〜The Soul of Japan〜』(注1)を著し、「不可解」とされていた日本への理解を世界に広め、日本への評価を大いに高めた。


注1: この著書は西欧への日本の紹介という目的のため、原著は英語で書かれている。和訳版が複数の出版社から提供されているが、入手しやすい岩波文庫の矢内原忠雄訳は文語調であるため、現代人には読みやすい書物ではない。内容の理解には、この書物の解説書ともいうべき、元台湾総統でもある李登輝氏が著した『武士道解題──ノーブレス・オブリージュ』(小学館文庫/2006年刊)が読みやすい。


世界の動きに追従できない日本のレガシーシステム

 自立・自律とはほど遠い状況にあまりにも長い間浸ってきたわれわれにとって、自立・自律というテーマを具体化するとなると大変難しい。「当たり前」としてきたことに対して、「そこに選択肢がある」という意識がそもそもないため、考えの取っ掛かりを見出すことさえ苦労する場合が多いのだ。

 日本は明治以来、先進西欧諸国を、特に第2次世界大戦後は米国を目標に進んできた。しかし経済の成熟を遂げた現在、政治と行政の混迷の中で、自らの国家の将来目標の設定ができずにいる。その閉塞感の背景をさかのぼれば、その一端は世の中の規範である法律の体系にまで至る。

 近代法の法体系には、英国やその植民地であった国々の法律に見られる判例を基準とし、これに規制される「英米法」と、ヨーロッパ大陸の多くの国々の法律に見られる成文化された法律の条文によって規制される「大陸法」がある。

 前者の場合、『立法は各議員とそのスタッフによって行われるため、何本も出てくる同種の法律については議会で調整する。既存の法律との矛盾や重複はあまり気にされず、問題が生じて訴訟が起これば裁判所が判断する。おおむね新しい法律で古い法律を上書きするように解釈する』(池田信夫著『ハイエク 〜 知識社会の自由主義』/PHP研究所/2008年刊)という。新しい事態への法的対応は容易な反面、司法のウエイトが大きいこの制度の下では、米国のように訴訟大国化する傾向も否めない。

 一方、後者の大陸法では、法律や省令などのほとんどが官僚によって作られ、その解釈も、また処罰も行政処分として官僚により執行される「行政集権」の方式になる。所管官庁ごとの縦割りで膨大な数の法律が作られるほか、法律間の矛盾や重複を排除し、1つのことを多くの関連法で補完する大変複雑な構造の仕組みになる。このため、法律の作成や変更には「高い記憶力と言語能力」を備えた人材(官僚)を必要とし、これらが相まって、あらゆる権限が極度に行政に集中することになる。

 日本は明治の初期、当時のプロイセン(独)の国制を模倣しようとしたため、行政集権的な欧州の法体系、すなわち大陸法が採られた。「高い記憶力と言語能力」を持つ官僚を育成するため、旧・東京帝国大学法学部を頂点とする、いまも続く教育体系が作られた。

 当時、「先達を見習い、近代化を進めるプロセス」では効率的に機能した大陸法と表裏一体の行政で成功したが、それを成し遂げた現在、法律も行政も「付け足し、修正」を何度も加えてきた結果、メンテナンス不能になった巨大なレガシーシステムのような状態に陥り、世の動きに追従できなくなっているように思える。また、政府の役割も明治時代に求められた土木インフラの整備や重工業の育成から、現在の安全・安心、福祉、教育、医療といった国民需要へのシフトができないでいる。

 基本的に米国のシステムは、原則自由の下で「新しい企て(イノベーション)によって、巨万の富を得(アメリカン・ドリーム)、問題は裁判で決着」といったものである。著作権上の実質的無法地帯であるYouTubeや、プライバシー問題を置き去りにしてお金儲けを先行させたうえで「問題があるならいって来い」というGoogleマップは、この米国型システムの代表的な申し子である。しかし、あらゆることを既成事実化させる経済のスピードに、その訴訟さえも付いていけなくなりつつあるように見える。最近、問題となっているGoogleブック検索については、日本はどう対処すべきだと読者はお考えになるだろうか。

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