連載
» 2009年04月02日 12時00分 公開

何かがおかしいIT化の進め方(42):“変化”を模索する世界(後編) (2/3)

[公江義隆,@IT]

今後、日本は何をなすために存在すべきなのか

 以前、「会社は誰のものか」という議論があったが、いま「国とは何か、国は誰のものか」を再確認すべき時期なのかもしれない。日本人にとって「1億総中流」と国民が感じていた時代が、最も幸福で心豊かな時代ではなかったであろうか。

 「お前(筆者)が来ていた1960年代後半が、ロウソクの火が消える前にパッと明るく輝く瞬間のような、よき米国の最後の時期だった」と、米国の知人が声をそろえて言う。米国の中産階級がまだ元気だった時代である。日本には「実業」「実業家」という言葉があった。実業は付加価値を生み、自身に財をもたらし同時に世の中を豊かにした。虚業はゼロサムの世界である。片方が富めば他方は貧する。虚業が幅を利かし貧富の差を極端にしたのが昨今の傾向であった。

 「一部が富めば、やがて全体に富が広がる」という説は真実ではなかった。「ベンチャー」も、「起業」も、「機会の平等」も、「自己責任」も、「個の尊重」も、「改革」も、権力者に都合のよいように使われただけの言葉に過ぎなかった。

 いま、世界が大きく、抜本的なレベルで変わろうともがいている。いままでの経過から見る限り、前編の冒頭で述べたように日本は問題を矮小化してとらえ、発想の転換が遅れ気味のような気がしてならない。気が付けば、後ろに付いて走ってきたつもりの米国の姿は前にはなく、隣にいた他国は別のコースを走っている。元のトラックにいるのは日本だけといったことになりかねない。

 日本は、将来に対する選択を考えなければならない時期に来たようだ。人間、よほど困らないと真剣には考えない。現在の危機は、国民1人1人が自分たちの国の将来を考え、変えられる可能性のある数少ない機会である。

「ITって、よいことですか?」

 われわれにはIT、情報システムにかかわるプロフェッショナルとして、ITや情報システムの在り方についての責任がある。いま、本当によく考えておかなければ、これからの変化してゆく世の中から取り残されることになりかねない。今度は「借り物」では済まない、自分で考えなければならない時代である。

 過去、特にこの20年のIT分野の動きを振り返り、この間にあった考え方や価値観が、これからの社会を考えたとき、正しいことであったか、よいことであったかを評価し直してみる必要があると思う。もちろん、採用したソフトがよかったか否かとか、あるアプリケーションシステムの開発決定が妥当だったか否かといったレベルの問題ではない。単なる「技術」のつもりで導入したITには、数多くの米国流文化や価値観がまつわり付いていたはずだ。

 以前、「お金儲けって、悪いことですか」と開き直った投資ファンドの主宰者がいた。犯罪性は別にしても、目的や考え方(理念や倫理観)と方法が問題だったと思う。いま、われわれには「ITって、よいことですか」の答えが求められよう。実際、関係ないと思っていたことが、実は大きく関係があったり、被害者のつもりが、知らないうちに実は加害者でもあった、ということがある。例えば、いま議論される雇用問題とITのかかわりを考えてみよう。

 派遣労働法の制定を求めたのはIT業務の方であったが、IT分野の人間にとって、この問題は雇用される側、雇用する側の当事者として「大いに気になる問題」といった範囲にとどまってはいないだろうか。ここで考えてみたい問題は、まったく別の切り口からの問題である。

 今回の雇用問題の背景には、社会ないしは企業組織の中における、正規雇用と非正規雇用という要員の2極分化の問題がある。そして、それを支え進めてきた要素には「システム化」と「分業」の存在がある。ITや情報システムにかかわってきた人にとって、「大いに気になる問題」といった他人事のレベルで済ませるべき問題ではないのだ。

 ここでいう「システム化」とは、具体的には「コンピュータなどによる業務の自動化」と、「人手による作業のマニュアル化」という概念とその具体化のことである。仕事を行うとき、人はその仕事の目的や意味を理解しながら、どのようにやればよいかを考え、判断して、いろいろと工夫や苦労を重ねながら作業を行ってきた。ときにはうまくいかない場合もあったが、成功は先への自信につながり、失敗からもいろいろのことを学びながら人は成長してきた。

 システム化という世界では、業務や作業の標準化が大前提である。業務内容を機能的に分析し、判断を要する問題には判断条件と必要な情報が整理された。判断結果に基づき、行われるべき業務の処理方法が決められた。コンピュータにより自動化される業務では、判断条件と、そのために必要な情報、業務の処理方法がプログラムとしてコンピュータに組み込まれ、それらが人手に頼らず機械的に実行できるようにした。コンピュータの周囲には、雑多な、高度とはいえない作業が残された。

 一方、人手で行われる作業については、作業が単純作業のレベルにまで機能的に分割され、それぞれについての作業方法が詳細に決められ、文書化され、短時間の訓練で特別の能力を有しない人でも行えるようにした。

 そして、この方式が、多数の「単純作業を実行する人」と、少数の「自動化を考え、その仕組みを作る人」や「マニュアルを作る人」への分化を発生させた。前者は簡単な労働として、また需給関係からも賃金は安価に抑えられた。一方、後者側の立場に立つ幹部や、その候補生の社員にとっては、自らの利益にもつながるこの方法が、「よい方法」「優れた方法」「さらに進めていくべきもの」として支持された。

人を不幸にする従来のシステム化

 経営にとっても、目先のトータルコストが下がる「システム化」は歓迎され、グローバル化によるコスト競争によって、この方法がいっそう推し進められた。また、労働者の能力や文化の異なる海外生産などには、このほかに有効な方法が見つからなかった。

 しかし、この方法は「標準化」がその大前提となる仕組みである。現場の従業員には、「いくらよいことでも勝手なことをやられては困る」「考えて工夫するために時間を使うのは、生産性を下げる余計なこと」「顧客や状況に応じた柔軟な対応までは期待しない」「従業員のレベルアップは必要ない」という考え方なのである。従って、人の育成にコストを掛けることもしない。従業員にとっては、仕事の中で能力が開発されることはなく、長く勤めても給料が上がることもない仕組みなのだ。

 自律性を発揮する機会を奪われた従業員は、能力が向上することもなく、またそのために自ら努力する意欲もなくしていく。不測事態への対応などは当然できないし、しようともしない。つまりは進歩しない組織になるのだ。

 一方、自動化・マニュアル化を考える側の立場にある本部の人たちも、現場から離れて久しく、現場実態の理解ができなくなっていく。また、現場経験の機会もなく、問題解決の実務的能力もないまま、ただ机上で数字をいじくり回すだけのような“ビジネススクールスタイル”が職場にまん延してくる(余談になるが、昨今の政府の政策結果の破たんを見るに付け、“ビジネススクールスタイル”は霞が関にも浸透していたように思う)。

 当然、こうした状況は仕事の質の低下を招く。その結果、現場作業はうまくいかず、「そう言うなら自分でやってみろ」といった穏やかならぬ心中となり、現場の士気はさらに低下する。そして、生産性を追えば追うほど品質は下がるといった悪循環になっていく。しかし多くの分野で、本社・本部の人たちは、この背景にある問題に気付く術を失い、自分のやっていることの評価ができなくなりつつあるようだ。本社が自社の現場の実態を把握できなくなり、外部の投資家的な発想しかできなくなっているなら、自らの存在の否定につながっていくことになる──これが人をコストとしか見られない、ビジネススクール型管理の悪しき弊害である。

 1930年代に開発された米フォード自動車の生産システム、いわゆる「ベルトコンベアシステム」というシステム化の原点と思われる仕組みは、コストや効率という観点で短期的には効果が高く、規格品の大量生産には向いていたが、自律的な進歩が期待できない、あまり「人間的」とはいえるものではなかった。

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