心をわずらった人への正しい対応方法は?読めば分かるコンプライアンス(17)(2/5 ページ)

» 2009年04月07日 12時00分 公開
[鈴木 瑞穂,@IT]

周りのみんなが自分のあら探しをしている

 12月に入り、街はポスターもイルミネーションもBGMもクリスマスムード一色になっていた。堺のジョブはそんな雰囲気とは無縁で、最大の山場を迎えてメンバーはみな殺気立っていた。

本庄 「堺さん、この『交際費』に関するプログラミングですけど、以前、これは仕様変更になるから、プログラム仕様書も根本的に書き直してクライアントと再交渉するっていってましたよね。その件って、その後どうなってます?」

 部下でSEの1人である本庄康弘が声を掛けてきた。

 「えっ? 『交際費』の件?」

本庄 「ありゃ、また忘れてるんですか? この前も『会議費』でクライアントに再確認するっていっていたのに忘れていて、大事になりかけたじゃないですか。『交際費』のプログラミングだってどんどん進んでるんですから、変えるんなら変えるで、すぐに指示を出してもらわないと、とんでもないことになりますよ!」

 「あ、あぁ……。分かってるよ」

本庄 「お願いしますよ、ほんとに……」

 堺は「交際費」に関して自分が本庄にどんなことをいったのか、覚えていなかった。こんなことは以前はなかったのだが、仕事に対する意欲を失い、生きる目的が分からなくなってからというもの、仕事の大事な局面での判断が遅くなっていた。そして、部下に急かされてから対処はするものの、そのときの自分の決定や指示を忘れることが多くなった。

ALT 堺 俊明
ALT 本庄 康弘

 「あのとき、堺さんはこういってたじゃないですか!」と後から部下に指摘されても明確に思い出せず、そのたびに堺はプロジェクトマネージャとしての、否、1人の人間としての自信を失っていった。自信喪失に陥ると、他人はいつも自分の落ち度を探しているのではないかという疑心暗鬼モードにつながり、それがこうじて人間不信となった。

 堺がプロジェクトマネージャに任命される前は、本庄とも先輩後輩の間柄で、むしろウマが合う仲間として、よく一緒に飲みに行ってたりもしていた。

 しかし、人間不信に陥った堺の目には、本庄もまた上司である自分のあら探しをする陰険な部下として映っていた。このときも、堺には「お願いしますよ、ほんとに……」といったときの本庄の顔に、ダメな上司を小バカにするような、さげすむような、暗い笑みが浮かんでいたように見えた。

 その翌日のことだった。堺は大塚マネージャに呼び出された。話の要件はジョブの進め方のことだろうと予測できた。ただし、いつものようにしかられるのかと思っていたら、逆に励ましモードだったので驚いた。

大塚 「堺、最近何だかパフォーマンスが落ちているようじゃないか。そんなことでどうする。頑張れ! 俺だって、昔はいろいろ失敗したもんだ。でもな、そこからどうやって這い上がるかが大事なんだぞ。俺も必死になって働いてきたんだ。お前だって死んだ気になって頑張れば必ずできる。『交際費』の件にしても、ぐずぐず考える必要はないだろう。とにかく行動することだ。行動すれば判断も伴う。判断が遅れて会社に迷惑を掛けるのが1番良くない。それぐらいはお前も分かっているはずだ。お前にはそれなりの能力があると思ったからプロジェクトマネージャに任命したんだ。頑張れよ。期待してるぞ!」

 しかし、大塚の叱咤激励は、仕事に対する意欲と生きる目的を見失っている堺にとって、傷口に塩を塗られるようなものだった。

 「(ええ、ええ、あなたは頑張ってきたんでしょうよ。あなたは偉い。あなたから見れば、俺はほんとにダメな人間ですよ)」

 それに加えて、大塚の口から「交際費」の件が語られたことが、堺には大きなショックだった。本庄が昨日のうちに大塚に伝えたに違いない。

 「(昔はよく一緒に飲みに行った仲間も、上司と部下になったらとたんに上司のあら探しか。人間、浅ましいもんだな。信じられないな)」

 本庄だけではない。堺の目には、周囲にいるすべての人間が信じられなくなってしまっていたのだ。仲良さそうに笑いながら話しているが、それはうわべだけ仲の良いフリをしているだけで、心のうちではみんなが誰かのあら探しをしている。もう、誰も信じられない。堺の心は人間不信のまくで分厚くおおわれてしまった。

 それからというもの、堺の毎日は灰色のガスに支配されてしまった。

 朝目が覚めると、すでに心の中には灰色のガスが充満している。スーツに着替えて玄関を出るときには、食肉解体場に引かれていく牛に心があるなら、きっとこんな気持ちなんだろうなどと考えながら、重い足を引きずって会社に向かう。

 自分の席でパソコンを開いていても、ディスプレイを眺めているだけで頭は何も考えていない。部下や同僚が2人3人集まって話している光景を見ると、「あいつらまた俺のあら探しをして上司に密告しようとしているのではないか」と勘ぐってしまう。

 周囲の人間のちょっとした表情の変化が、自分をさげすんで笑っているように見えてくる。仕事に対しても、どうでもいいじゃんという投げやりな気持ちや、また失敗してしまうのではないかという不安、こんな仕事に何の意味があるんだ、という苦悩が心の中で渦巻いて、まったく手が付けられないようになってしまった。

 そして、結局「交際費」の案件も先伸ばしにしてしまい、何の対処もしないまま年末年始の休暇に入り、そのまま年明けを迎えたのだった。これが最終的な引き金を引くことになった。

休職3日目の朝

 短期休職3日目。

 堺は今朝も午前7時に目が覚めた。

 目は覚めたが何もすることがなく、何もする気力もなかった。今日もまた、灰色のガスに脳みそを占領されたまま、くだらないワイドショーを垂れ流しているテレビをつけっぱなしにして、缶ビールを飲み、タバコをふかし、うたた寝と半覚醒(かくせい)を繰り返して時間をつぶすしかなかった。

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