持続可能社会とITシステムはどう在るべきか(後編)何かがおかしいIT化の進め方(46)(2/4 ページ)

» 2010年06月21日 12時00分 公開
[公江義隆,@IT]

持続可能社会に向けて、日本が採るべき道

 江戸時代の日本は、ほぼ国内での自給自足を実現した高度の資源リサイクル社会であったといわれる。その江戸時代の世界の人口は3000万人弱。人口100万人を超える江戸は世界でも屈指の大都市であり、国の統治や、文化・教育などソフト面の水準は、世界の中でも大変高かった。それが西欧諸国による植民地化を逃れ、明治維新後、急速な成長ができた背景要因の1つと考えられている。

 西欧先進国は産業革命以降、新技術を開発し、天然資源を活用して(少なくとも物質的、経済的には)豊かな社会を作ってきた。企業は利益を、消費者は便利さを求め続けてきた。その過程で多くの資源を使い、さまざまな社会問題や環境汚染、生態系の破壊を引き起こしてきた。CO2問題もまた然りなのであろう。

 一方で、限りなき欲望は進歩の源泉でもあった。制約条件のない状態が続くならそれでも良かった。しかし、われわれが使える天然資源は、太陽光や宇宙線と、地球にあるモノに限られ、そして地球にあるモノは有限である。その有限なモノをいままでの間にかなり使い込み、残量が心配な状況になってきた。限りあるものを長持ちさせるには使う量を減らす以外に方法はない。持続可能な社会とは「資源を使わない社会」だ。

 天然資源の乏しい日本にとって、輸入資源の価格高騰は経済的に大きな負担になる。内需主導の経済も結構かもしれないが、内需は国内消費である。そしてその国内消費に必要となる資源の輸入代金は、外国から稼がなくてはならない。

 考えてみれば、近代の歴史の中で、ほしいものを買うだけのお金が日本にあり、それを売ってくれる世界があったのは、いま社会の中核を形成する30〜50代の人たちが育った、わずか数十年間だけである。「お金を出せばほしいものが手に入る」のは決して当たり前のことではないのだ。

 日本が第二次世界大戦に突入していった背景には、「資源を求めたアジアへの進出」があった。いま再び「いかに少ない資源で幸福な国民生活を実現するか」という課題に直面せざるを得なくなった。日本が持つこの基本的な課題を乗り越えるためには、以下のような “改革”が必要になると思う。

  • 意識改革:物質的/金銭的な欲望、「楽をしたい」という欲望の対象を変える
  • 社会システムの改革:資源消費の少ない社会システムにその構造を抜本的に変革する
  • 技術改善:技術開発を通じて、資源効率の良い商品、製造プロセス、資源リサイクルプロセスを開発・活用する

 以下では、これら3つについて論を進めるが、それぞれ答えは1つという問題ではない。ぜひ皆さんもそれぞれについて考えてみてほしい。

意識改革――進歩のための新しい動機付け探し

 人や社会は進歩を求め、進歩には動機付けとなるものが必要である。ここで言う「意識改革」は、物質的・経済的、また便利さを求める欲望に代わる、新しい進歩の源泉を見いだすことにほかならない。この問題の入り口を、「人が感じる幸福感」という観点において考えてみる。

 行き過ぎた自由競争の果ての社会では、金持ちは財産が減ることや他人に追い抜かれる不安に駆られ、さらなる財の獲得に骨身を削る。貧者は終生立ち直る機会を失ったと感じ、希望を持たなくなる。

 つまり、「人が感じる幸福感」は多分に相対的なものだ。周りの人たちに比べて、現在の自分が同じか少しでも良い状況なら満足感は増し、周りより厳しい状況だと不安を感じる。しかし、厳しい状況でもそれが改善されてゆくことが感じられれば、満足感に結び付くし、良い状況に置かれていても、それが不安定であったり状況が悪化していたりすると不安に陥る。

 人は、生きていくうえで必要な最小限の経済的条件が満たされていれば、対象が物質的・金銭的なものでなくても、努力に応じて何かが達成されてゆくプロセスに満足や安心を感じ、また進歩をしてゆけるのではないだろうか。

 かつて、日本にはお金に執着する人を“守銭奴”と呼び、「恥ずかしい」とする文化があった。「質素倹約」は長い間、“日本の価値観”であった。多くの人が金融投機に走り、「金持ちになることが成功」「金持ちが偉い」といったアメリカン・ドリームを模したような現在の社会風潮は、1980年代のバブル期以降に、かなり人為的に作られたもののように思う。そうした経緯を考えれば、“もの”やお金に換わる新しい幸福の対象を見つけてゆくことは、日本人にとって不可能なことではないと思う。

 子供たちは、知らなかったことを知り、分からなかったことが分かり、できなかったことができるようになることに目を輝かせる。科学者は興味を動機に新しい発見をして、その業績が学問の場で評価されることに満足を覚える。技術者は新しいものを作り出し、それを世の中の人が使ってくれることに喜びを感じる。日本に介護制度ができた当時の福祉現場の人たちは、「仕事は厳しいが、人の役に立っていることが実感できる」と目を輝かせて働いた(低賃金のために生活が成り立たず、心ならずも離職する人が多いのは国の失政であろう)。

 生死の狭間のような紛争地域で、困っている人を助けることに生きがいを感じて頑張るNGOやNPOのボランティアがいる。趣味の世界に没頭したり、地域コミュニティの中で活躍する高齢者もいる。人は新しいことを知り、自分が人に認められ、人の役に立ち、そして自己実現できることに喜びを感じる。幸福感の本来的な源はこの辺りにあるように思う。

 一方、人の機能や能力は使わないと退化してゆく。道具や仕組みに「楽ができる便利さ」を追い求めた結果、すでに失いつつある人間の能力に目を向ける必要がある。ITも人々に多大な利便性を提供する一方で、例えば、仮名漢字変換機能は漢字能力や、言葉の意味を知る機会を奪い、Web検索の普及は考える能力を殺ぎ、インターネットの匿名性は人間性や倫理感を壊し、携帯やメールは人間のコミュニケーション能力の低下に寄与した。大学で講義をしていて、学生たちの知力、体力、気力の、想像をはるかに超える低下具合に驚かされる。能力を退化させててゆく人の集団から成る社会に進歩や幸せはあるのだろうか。答えは簡単ではないが問題は深刻だ。

 1番目の課題である、こうした「意識改革」に対しては、メディアの役割と社会的責任が極めて大きい。

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