昭和43年、9月。日本の空に、巨大が銀色の船体が浮かびあがった。日本初の飛行船、登録番号「JA-001」こと、「飛龍号」が動き出した瞬間だった。日立製作所の最新鋭カラーテレビ、「キドカラー」のロゴマークをかかえた飛龍号は、半年をかけて日本列島を縦断、「キドカラー号」の愛称で親しまれた。
しかし、昭和44年4月4日。運命の日がやってきた。徳島で係留されていた飛龍号は、おりからの低気圧による強風にあおられ、巨大な船体を風に翻弄された。このままでは、飛ばされてしまう。やむなく、エンベローブが切り裂かれた。
日本中に愛された飛行船、キドカラー号が、再び大空に舞うことは、なかった。
平成16年6月28日。東京・赤坂にある小さな出版社に2つの小包が届いた。1つは、タカラのラジコン飛行船「キドカラー号」。もう1つは、大きなヘリウムガスの段ボール。製品レビューのために取り寄せた、評価用機材だった。
そこには、キドカラー号を知らない、若い男たちがいた。見知らぬ飛行船に、はしゃいだ。いつもマイペースな西坂も、いつも腹をすかしている斎藤も、「飛行船、早く、早く」と言った。
しかし、担当の芹澤は、首を縦に振らない。仕事が、残っていた。そして、なにより、2人に手伝う気がないことも、分かっていた。
一方、その場には、キドカラー号を知っている大人たちもいたが、知らない振りをしていた。歳が、ばれてしまう。しかし、目の輝きは、彼らの気持ちを裏切っていた。
これは、キドカラー号を知らない若い世代が、幾多の苦難を乗り越え、ラジコン飛行船を社内で飛ばすまでの、知られざるドラマである。
6月29日、ついに挑戦のときがやってきた。すぐさま、7人の若者が集まった。彼らの名は、杉浦、渡邊、長浜、西坂、佐々木、斎藤、芹澤。自称精鋭たちだった。
薄いパッケージを開けると、中に含まれていたパーツは、わずかに20種類。しかし、若い彼らにとって、初めて目にするものばかりだ。
エンベローブとなるフィルムは、わずか21ミクロンの薄さ。これに、すでに出来上がった形で入っているゴンドラ、ノーズコーン、垂直安定板、水平安定板などを半分だけ両面テープで本体に取り付け、ヘリウムガスを注入する。本体を膨らませてからでなければ、確実に接着できない。高等技術だった。
いつものように、説明書を読まずに組み立てを始めた芹澤を制したのは、彼らの中ではベテランの長浜、そして転職してわずか4カ月目の新人、渡邊の2人だった。慎重にパーツを取り付けると、ヘリウム充填用のポンプを握った。
エンベローブの容量は70リットル。100リットルの容量を誇るヘリウムガスパックだが、2回目は、ない。そして、ポンピングの回数は、150回から160回。厳しい肉体労働は、芹澤と2番目に若い渡邊が担当した。
そのとき、西坂は愛車のフォルクスワーゲンを走らせていた。彼には、別の使命が、あった。愛娘をお風呂に入れる時間だった。
狭い社内に、閉塞感が満ちていた。船体は完成した。しかし、ヘリウムガスを注入しても、キドカラー号は浮かぼうとしない。しかも、満杯にしてもすぐにガスが抜けてしまい、船体がしぼんでくる状態だった。皆、青ざめた。寄ってたかって組み立てているうちに、どこかに穴があいてしまったのだ。
「どこだ。どこかにあるはずだ」。
これ以上、仕事をサボることはできない。長浜の発案で、石けん水が、持ち込まれた。30分後、「ここだ」。船体上部に穴を発見。補修用テープを、ぴたりと、とめた。
それでも、キドカラー号は浮かない。浮きそうに見えながら、地上を離れようとしない。「ポンピングのときに空気が混じったのか」。恐ろしい想像が、全員の脳裏を、よぎった。
残された方法は、一つ。新しいヘリウムガスを手に入れ、注入する。幸い、説明書にはヘリウムガスの販売会社が記されていた。「夢ふうせん」。だが、今日中に手に入れることはできそうにない。
全員が憔悴していた。ぐだぐだ、だった。そのとき、一番若い杉浦がつぶやいた。「いつの間に」。
男たちは、一人、また一人と去っていった。
終電の、時刻だった。
その晩、芹澤は眠い目をこすりながら、自室で「夢ふうせん」のWebサイトにアクセスした。120リットル入りのヘリウムガスは、3150円。夢をつなぎとめる、ワンクリックだった。
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