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コラム
» 2005年11月14日 10時00分 公開

小寺信良:キモオタの発祥に見るコンテンツ社会の臨界点 (2/3)

[小寺信良,ITmedia]

なにがキモいのか

 しかしいくら蔑称を受け入れるとは言っても、普通の人が受け入れられるのは、薄まった状態の「オタク」あたりまでだろう。ネットにもオタクを名乗る人も多いが、さすがに自らを「ボクはキモオタです」と名乗るシーンは、まず想像できない。もし自称できるような人が現われたら、それは相当いろんなものを捨てて、ナニかは知らんが相当の覚悟ができていると思わざるを得ない。

 現代のオタクは、大半が社会に対して無害である。あるいは突き抜けたオタクの場合でも、脱社会的であるがゆえに、一般社会と接点がなければ無害と言える。

 それならばキモオタは、なぜキモいのか。簡単に言うならば、社会との接点があり、その基準から外れた言動をするからである。もう一歩踏み込んで考えてみれば、キモオタの特徴的な行動とは、偶像と実像のメディアチェンジが行なわれたことに気がつかない状態であると言えるかもしれない。

 例えばある声優がいたとしよう。自分の部屋でその人をいくら応援しようが、キャラの抱き枕で身モダエしようが、本人の勝手である。マスメディアに乗って部屋までやってくる声優という存在には、実体がない。そんな中においては、自分自身の存在もまた、実体を失っていく。

 だがイベントなどで実際に声優が現われたときにも、部屋と同じ反応を返してしまうと問題がある。通常であれば、いつも見慣れている虚像が実体化した状態において、自分自身も実在の人間であることを意識しなければならない。すなわちイベント会場という公共の場において、自分と同じく生身の人間がたくさんひしめき合うからには、お互いが快適でいられるような配慮が必要なのである。

 だが目の前の対象物が、マスメディアに乗った偶像から実像にチェンジしても、自分のほうが実像化できないのである。実体がなく精神的な存在であるならば、トランス状態に移行するのはたやすい。その状態が、実体のある冷静な視点からは、キモいのである。

 キモオタが発症する条件としては、マスメディアという存在が、凸レンズのように個人を拡大してしまうという要因が大きい。声優の例は極端だから自分には関係ない、と多くの人が思うかもしれないが、実はこのような問題は、過去頻繁に起こっているのである。

 例えばタレントがロケで街に出ると、まるで知り合いのように話しかけてくるオバチャンが必ずと言っていいほど存在する。これなども、普段テレビで見ている虚像が目の前で実体化したときに、自分の方がメディアチェンジができていない例であろう。

 普段テレビを見ているときは、マスメディア上の「公」に対して、視聴者は「私」として接している。「公」の存在が目の前にあるときは、自分もまた社会人として、「公」の状態で接するのが通常だ。それをいきなりお茶の間で寝転がりながら尻掻いてるような態度でなれなれしくされては、「あの人だれ? キモチワルーイ」と思われても仕方がない。

 マスメディアのコンテンツが魅力的になり、影響力が増大するほど、虚像と実像、公と私を使い分けることが、難しくなる。

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