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コニカミノルタ、カメラから撤退 ソニーが「α」を継承

» 2006年01月19日 15時41分 公開
[ITmedia]

 コニカミノルタホールディングスは1月19日、カメラ事業、フォト事業から撤退すると発表した。カメラ事業は3月末で終了、デジタル一眼レフカメラの一部資産はソニーが取得し、同社は「αマウント」に準拠したデジタル一眼レフカメラ(DSLR)を今夏に発売する計画だ。

 コニカミノルタは「デジタルカメラではCCDなどのイメージセンサー技術が中心となり、光学技術やメカトロ技術などの強みだけでは競争力のある強い商品をタイムリーに提供することが困難な状況」と撤退理由を説明している。銀塩フィルムなどのフォト事業も、デジタル化の進展で市場が縮小し、収益性が悪化。昨年11月にはフォトイメージング事業の縮小とリストラ策を発表していた(関連記事参照)

 カメラ業界では昨年、京セラがカメラ事業から全面撤退している(関連記事参照)。デジタル化の進展は優勝劣敗の原則を加速させ、ついに名門カメラメーカーをも撤退に追い込んだ。

ソニーがαマウント機を発売

 αマウントと互換性を持つDSLRに関連する開発、設計、製造などに必要な一部資産はソニーに譲渡する。銀塩カメラやデジタルカメラなどのカメラ事業は3月31日付けで終了し、「DiMAGE」シリーズのデジタルコンパクトカメラなどが姿を消す。ただ、ソニー向けにDSLR・交換レンズの製造は行う。4月1日以降、銀塩ボディを含むコニカミノルタ製カメラ・レンズなどのアフターサービスはソニーが行う。

 両社は昨年7月、αマウントのDSLRの共同開発を発表。ソニーのセンサーとコニカミノルタのレンズ資産など、それぞれの強みをいかした製品を発売すると予告していた。コニカミノルタは「αレンズを継続して活用してもらうため、また一眼レフで培ってきた光学技術・メカトロ技術を今後ともいかし続けるためにも、イメージセンサーに強みを持ち、昨年提携したソニーに資産を譲渡することが最適との結論に達した」としている。

 フォト事業も規模を縮小しての継続を検討してきたが、市場の先細りは避けられず、「継続的な黒字事業としていくことは厳しいと判断」し、終了を決めた。

 カラーフィルム、カラー印画紙は段階的に品種を絞り込み、2006年度下期末までに生産を終了する。ミニラボは本年度末までに生産終了とするが、メンテナンスとアフターサービスはノーリツ鋼機などに委託する。販売体制も統廃合を勧め、2007年度上期末までにすべて終了する。

 カメラ、フォト事業の撤退に伴い、全世界のグループ従業員3万3000人の1割強に当たる3700人の人員削減を行う予定。構造改革費用は2006年3月期業績予想に織り込み済みだとしている。

 コニカミノルタホールディングスは同時に、太田義勝副社長が4月1日付で社長に昇格する人事を発表した。岩居文雄社長は取締役会議長に就く。植松富司取締役会議長は辞任する。経営者の交代で、カメラ・フォト事業撤退などのけじめをつける。

「α」は世界初の本格的AFマウント

photo 1985年2月発売の「α-7000」。カメラ賞を総なめにした(コニカミノルタWebサイトより)

 旧ミノルタは1928年創業の「日独写真機商店」が翌年、第1号機「ニフカレッテ」を発売してカメラ事業をスタート。1937年に「千代田光学精工」に社名変更し、国産初の二眼レフ「ミノルタフレックス」を発売。「ミノルタカメラ」に社名変更した1962年には、米国の有人宇宙船「フレンドシップ7号」に同社製「ハイマチック」が搭載。1973年には独Leitz(現Leica)との相互技術協力でレンジファインダー機「ライツミノルタCL」も送り出し、堺の名門メーカーとして世界に知られた。MF期のレンズブランドは「ロッコール」。1985年、世界で初めての本格的な35ミリシステムAF一眼レフ「α-7000」を発売し、AF時代の幕を開けた。

 旧コニカは、前身の「小西本店」が1902年に「チェリー手提用暗函」、翌年には国産初の印画紙を発売。1940年には国産初のカラーフィルムを発売し、その後「サクラカラー」で親しまれた。レンズブランドは「ヘキサー」「ヘキサノン」。世界初のAFカメラ「Konica C35AF」は「ジャスピンコニカ」の愛称でヒット商品となった。工事現場専用の「現場監督」は一般の愛好家も多く、「コニカBiG mini」はコンパクトの名機と言われた。

photo ジャスピンコニカこと「Konica C35AF」。井上順さんでおなじみだった(コニカミノルタWebサイトより)

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