コラム
» 2009年05月23日 11時00分 公開

遺品整理人が語る、孤独死の現実――キーパーズ 吉田太一社長あなたの隣のプロフェッショナル(4/5 ページ)

[嶋田淑之,Business Media 誠]

破天荒な人生行路――板前、宅配便セールスドライバー

 遺品整理業のパイオニアとして知られるようになった吉田さんではあるが、もともとまったく違う業界で仕事してきた人である。

 1964年に大阪で生まれた彼は、小学校の頃から水泳が得意で、高校も体育科に進学し、高校時代はスキーに熱中したという。しかし、スポーツで頭角を現わすことの難しさを痛感した彼は、高校を卒業すると関西調理師学校に入学。1年後には調理師として神戸、そして大阪で就職する。

 2年ほど経ったころ、「自分の店を持ちたい。それには東京や」と思い、包丁1本をサラシに巻いて「流れ板七人」よろしく単身上京。首尾よく渋谷の道玄坂のクラブでチーフに就任するも、「女の子たちの態度にぶちきれ、オカマに襲われそうになって辞めました」と笑う。

東京・恵比寿の割烹でマネジメントの全権を任されていた(中央が吉田さん)

 その後、東京・恵比寿に割烹が出るという話を聞きつけ、ハッタリを利かせてマネジメントの全権をもたせてもらったが、店は閑古鳥が鳴き、約1年で店をたたむことになる。それからは食べるために悪徳商法のセールスマンをやったり、喫茶店や料理屋に就職したりしたが、結局、結婚を機に故郷の大阪に戻った。

 夢破れ、挫折感に打ちのめされながらも、経済的な逼迫(ひっぱく)は待ったなしに押し寄せてくる。とにもかくにもお金を貯めようと決意した吉田さんは1988年、佐川急便に就職した。幸いにも宅配便のセールスドライバーとしての仕事は順調で、入社3年目には家を建てた。

 「どうすれば相手が喜ぶかがすぐに分かるタイプで、それゆえ目上から可愛がられたんですよ」と笑う。実際、当時の彼は「爺キラー」と呼ばれていたという。しかし、5年間勤務した彼はあまりの順境に物足りなさを覚え、コンビニをやろうと考えて退職。だが、コンビニ話は頓挫し、たちどころに経済的に追い詰められていく。

独立して引越し業界に参入、そして遺品整理業の立ち上げ

吉田運送を創業したころの1コマ

 一念発起した吉田さんは1994年、借金をして軽トラックを購入。吉田運送として引越し業を開始する。

 「サービス業は便利屋みたいなもので、要するに代行業だと思いました。ですから、依頼される仕事は何であれ決して断りませんでした。ある時、家電の取り付けサービスをしてあげたら、すごく喜ばれましてね。『気が利く』ことをウリにすると、ちょっと単価が高くても顧客が付くのです。お陰で初年度売上は1800万円になりました。引越し屋だからといって、ただ運べばよいというものではないんです」

 また、「いらない家具・家電が倉庫に溜まっていたので、リサイクルバーゲンをしたら売り切れてしまった」ことから、吉田さんは全国に先駆けて「ひっこしやさんのリサイクルショップ」をオープンする。

 「でも、他社が真似るようになってつまらなくなり、その後辞めてしまいました。その一方で、夜逃げ屋の仕事もずいぶん扱いましたね。怖い目にもあいましたよ。夜逃げの途中で、ヤクザに見つかってもめたり、拉致されそうになったり(笑)。会社倒産専門か、離婚専門の引越し屋になろうかと考えていたころのことですが、ある遺族の話を聞いていて遺品整理の必要性があることに気付いたのです」

 吉田さんにとっては、まさに人生の転機だった。

 「ビジネスにしようと思って全国の葬儀関連業者に一斉にメールを送ったところ、ただ1社、葬儀ギフト業の大手セキセーから反応があって、一緒に遺品整理の会社を立ち上げることになったのです。それが現在のキーパーズです」

 キーパーズ創立は2002年のこと。その後、マスコミからの注目もあり、ビジネスは順調に発展し、現在に至っている。

 「広告宣伝費に売り上げの25%を投下してきたので、いつもいっぱいいっぱいでしたけどね」と苦笑する吉田さんであるが、すでに次のステージを見すえているようである。

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