「駅ビルっていうのは、権力者が交代するたびに、テナントも入れ替わります。当時は追い出す方法として、フロアごとに順次、改装していくという手法が取られました。改装予定フロアの各店舗に改装協力費として数千万円を用意させるんです。
でも、そんな大金、おいそれと用意できるわけもなく、たいていの店が自分から出ていかざるを得ません。
そして、遂に『ベルク』のあるフロアもそろそろ……という流れになりまして。私は、この時になって初めて『ベルク』って、実は抜群の立地条件にあるんだということに気が付いたんです。
それで何とか手放すことなく、ここでやっていける方法があるのではないかって考え始めたんですよ」
井野さんは、新宿小田急百貨店の三省堂書店に直行して、喫茶店経営に関する本を探した。そして、ドトールコーヒーショップの経営本を見つけた。そこには「これからはセルフサービスの時代になる」と書いてあった。
「『これだあ!』って思いまして、早速、母親に提案したんですが、一蹴されました。そりゃそうですよね。それまで全くノータッチだった素人の私が突然、そんなことを言ったって、受け入れるわけはないんです」(苦笑)。
しかし、めげなかった。「ベルクは、セルフサービスでやっていけると確信しましたし、そうやって低価格・高回転で売り上げを伸ばせば、追い出されることはあるまいと踏んだんです。
私は、自分の本気度をアピールするためにも(笑)、ベルクでアルバイトとして働き始めたんです。それと同時に、喫茶店の専門学校にも通いました」
この専門学校で、素晴らしい出会いに恵まれる。それはコンサルタントの押野見喜八郎氏だ。セルフサービスの難しさを熟知している同氏が、ベルクの立地条件を聞くや否や、セルフサービスの店にすべしと背中を押してくれた。
1990年、井野さんはベルクの経営権を譲り受け、ここから新生ベルクの歴史が始まるのだが、それと前後して、迫川尚子さんに共同経営しないかと打診している。
「でも、見事に断られてしまったんですよ」。そう言って、迫川さんと2人で大笑いする。
井野さんの浪人時代に出会い、大学時代から交際していた迫川さんとは、すでに事実婚という形で、人生のパートナーとしての関係を構築していた。
しかし女子美術大学卒業後の彼女は、すでに活躍を見せていたのである。
まずテキスタイルデザイナー(生地の織り方や染め方、色や柄などをデザインする)として、子供服製造会社に約4年間勤務。そのころ、田島征三氏の絵本『しばてん』、長谷川集平氏の絵本『はせがわくんきらいや』に接して感銘を受け、絵本出版社に転職。
さらに同社在職中の1988年、旅先で風景写真を撮影していた瞬間、「何か得体の知れないものが入り込んでくるような感覚」、「自分が見ているだけでなく、何かに見られているという感覚」を覚え、それ以来、写真に対する思いを深めていった。そして彼女は、絵本出版社に勤務しつつ、東京・四谷の現代写真研究所という写真学校の夜間コースに4年間通ったのである。
井野さんから共同経営の提案があったのは、まさにそうした時期だった。
こうして、いったんは断った経営参画であったが、再度、思い直し、写真と同店のマネジメントを両立させることを決意して、彼女はベルクの取締役・副店長として新たな人生を歩み出すことになった。
ベルクの新しい時代が、ここに本格始動したのである。
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