伝説の“呼び屋”は何を交渉してきたのか――ドクターKこと、北谷賢司35.8歳の時間(2/6 ページ)

» 2010年05月14日 08時00分 公開
[土肥義則,Business Media 誠]
現在は金沢工業大学コンテンツ&テクノロジー融合研究所の所長を務める

 そして米国の大学で教えながら、日本企業のために働く日々が始まりました。現場の最前線で仕事をさせていただくわけですが、もちろん甘い世界ではありません。結果を出さなかったら、すぐに捨てられてしまう。当時の私は日本企業のために、がむしゃらになって仕事をしていたのですが、中でも特に評価をいただいたのが「フェアに仕事をしていた」ことでした。

 フェアに仕事をする……と聞いても「当たり前じゃないか」と思う人も多いでしょう。しかしメディア産業には、"マッチポンプ的"な仕事をする人が多い。例えば「自分は日本のテレビ局の代理をしている」と言いながら、米国企業に近づいていく。その一方、日本企業には「自分は米国のテレビ局の代理をしている」などと言う。そして日本と米国、両方からお金をむしり取ろうとする輩が多い。

 しかし私は「フェアでない仕事は絶対にしない」と誓っていた。米国で働くのは大学だけで、その他は日本企業のため、そして日本人のために働くということを決めていました。このポリシーはいまでも崩していません。マッチポンプ的なエージェントを行わなかったことで、私は「信用」を手にすることができましたが、大もうけするチャンスを逃したかもしれませんね(笑)。

NFLとの交渉

 私は36歳のときに、後楽園スタヂアム(現・東京ドーム)の顧問になりました。そして翌年(1988年)には、東京ドームが開業。雨が降っても影響を受けない5万人を収容できるスタジアムは、それまでの日本にはありませんでした。そのハコにふさわしいエンタテインメントを海外から招へいすることが、私に与えられた仕事でした。

 後楽園スタヂアムの興行企画部長だった秋山弘志さん(現在は全国競輪場施設協会・会長)とメディア産業を専門にする大学教授の私がチームを組んで、“呼び屋”稼業(プロモーター)に乗り出しました。以来10年余り。私たちはすご腕の弁護士たちとやりあい、「超」の付く大物を招へいしてきました。マイケル・ジャクソン、ローリング・ストーンズ、マドンナ、ポール・サイモン、マイク・タイソン――など。もちろんいつも成功したわけではなく、億単位の赤字を出したこともありました。

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