伝説の“呼び屋”は何を交渉してきたのか――ドクターKこと、北谷賢司35.8歳の時間(5/6 ページ)

» 2010年05月14日 08時00分 公開
[土肥義則,Business Media 誠]

印象に残った2人

 印象に残っている人ですか? これまで多くの人と出会ってきましたが、2人の経営者が特に印象に残っていますね。1人は東京ドームを作った後楽園スタヂアムの保坂誠社長(1996年に逝去)。保坂社長は明治43年(1910年)に、満州で生まれました。満州中央銀行で支店長をしていましたが、敗戦によって帰国。昭和25年(1950年)に後楽園スタヂアムに入社し、社長になりました。後楽園球場を屋根付き球場にすれば雨天中止がなくなり、毎日収入を上げることができます。保坂社長は東京ドームを作ろうとしたものの、ほとんどの人は反対。しかし80歳を過ぎようとしていた彼の熱意によって、いまの東京ドームが完成しました。

 また保坂社長は外国人であっても、全くひるまずに交渉ができる人でした。ローリング・ストーンズや欧州のサッカーチームを招へいするときには、高齢にもかかわらず海外に行ってトップ会談をこなしていました。私は海外で30年以上暮らしてきましたが、保坂社長のように胸を張って交渉できる人はあまり見たことがありませんでした。とても勇気をいただきましたね。

 もう1人は東京放送(TBS)の山西由之社長(1986年に逝去)。山西社長は米国の3大ネットワークの1つ、CBSのペイリー社長に会う機会がありました。私もご一緒させていただいたのですが、同行していた人たちはペイリー社長の前では平身低頭……。しかし山西社長だけは違った。「私は日本の山西だ」と、堂々としていましたね。

 私のように海外と日本をつなぐような仕事をしている人間にとって、外国人と堂々と渡り合う人と出会えたことはとても嬉しいことでした。相手の皮膚の色が違っていても、「私は保坂です」「私は山西です」「一緒に仕事をしましょう!」と強く語っていました。もちろん日本人だからといって威張ってはいけませんが、卑屈になる必要はありません。海外の人と同じ土俵で「これからビジネスの話を始めましょう」というスタンスでいなければいけないのに、それができる日本人は本当に少ない。しかし私は保坂社長と山西社長という、たぐいまれな経営者と出会えたことはとても幸せでしたね。

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