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» 2011年04月20日 08時00分 公開

なぜ昔の新聞記者は“社会”を動かしていたのか烏賀陽弘道×窪田順生の“残念な新聞”(8)(3/4 ページ)

[土肥義則,Business Media 誠]

君は政治をやれ、オレは言論をやる

烏賀陽:朝日新聞のカイロ支局に牟田口義郎さん(2011年1月死去)という記者がいました。これは月刊『マスコミ市民』に書かれていた話からの引用です。彼は1973年のオイルショックのときに、三木武夫首相の特命を受けてOPECの幹部に直談判しに行ったそうです(笑)。

窪田:ハハハ。

烏賀陽:牟田口さんは「日本はアラブ諸国の敵対国ではないから、石油を売れ」という交渉に行ったんです。そして三木首相から「日本の危機を救った」と賞賛される。すごいといえばすごいんだが、それは「政府の密使」じゃないの(笑)

窪田:これは前にもお話したことがあるんですが、朝日新聞に入社したときに『歴史の瞬間とジャーナリストたち 朝日新聞にみる20世紀』という非売品の本をもらいました。その1ページ目には「日露開戦にいち早く布石」という見出しで、当時の朝日新聞主筆・池辺三山が外務省の参事官から、元老と会って「対露強攻策で問題解決を図るよう働きかけてほしい」と頼まれるところからはじまっている(笑)。

 元老の山縣有朋が日露交渉に賛成する姿勢をみせたので、開戦論者の外務官僚からすればワラをもすがる思いで頼んだわけですよ。そして池辺主筆も「いまなさねばならぬのは、断じてこれを行うという決断です」と説得し、山縣は頭を垂れて涙を流したと誇らしげに書いている。

 つまり、新聞というのはそもそも、ジャーナリズム機関というよりも、国政に働きかける「プレイヤー」だったということです。

烏賀陽:当時はリテラシーの高い人材が希少だった。だから昔の記者はプレイヤーになろうとしなくても、元々同じ母集団の人たちだった。1980年代半ばに入社した僕たちの世代は「そんな先輩たちを目指すのはバカバカしい」という雰囲気があった。しかし残念なことに、そのころから新聞の弱体化が始まった(笑)。

 昔は日本を動かす人たちと同じコミュニティーの中に新聞記者がいたので、特ダネがたくさん出てきた。しかしそれをどこかのタイミングでやめた。あるいはそういうコミュニティーの中に入らなくなった。

 その背景には高等教育が大衆化し、社会のリテラシーが上がった、高リテラシー層が増えたことがある。かつての高リテラシー集団は少数だったので、官僚も政治家も記者も学者も、同じ母集団から出ていた。だから、国を動かすことが簡単だった。しかし時代が変わって高リテラシー集団が大衆化し、分散した。

窪田:「君は政治をやれ、オレは言論をやる」という世界はなくなったわけですね。

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