体育館で生活をしている、金野剛さん(74歳)は震災の当時は市役所の屋上で一晩を過ごした。雪が降っていた、という。屋上には東側に70〜80人、西側に40人ぐらい逃げのびた人たちがいた。
「暗闇から『助けて!』という声があちこち聞こえた。誰がどこにいるのか見えない。どうしようもなかった」
そこから見えるのは、市民会館、ふれあいセンター、スーパーだが、その屋根まで津波が来ていた。第1波が最も大きく、4回目あたりも大きな波だった。5回目くらいからはおさまってきていたという。
屋上には翌日の午後6時ぐらいまでいた。その後、第一中学の体育館で家族4人で過ごしている。家は市役所のそば。そのおかげで助かったという。
「最初、大きな地震があって、大津波警報があったので市庁舎へ逃げた。入れてくれたので、4階の屋上へ行ったんです。津波は3階のフェンスまで来た。避難する前、用事があって出かけており、車の中でラジオを聞いていたんです。そしたら、釜石ではもう津波が来ているとのことだった。そのため『ここにも来る』と思った」
急いで家に帰り、避難所になっているふれあいセンターに向かおうとしたときには、すでに黒い波が見えていたという。高さは17〜18メートルを超えていたのではないかと見ている。「線路の手前に2階建ての建物があったんだが、それを超えていた」(金野さん)
大切なものを取りに戻って亡くなった人がいる、という話を、今回の取材では何回か耳にすることがあったが、金野さんは、「あれも、これも置いてきてしまったとは思ったが、取りに戻ることは考えなかった」と話す。
「還暦野球をしているが、野球仲間とまだ連絡がついていない人もいる。住んでいた地域の区長さんも亡くなった」
地震の時は「15日に行われる卒業式の予行練習をしていた」というのは、第一中学の千葉拓也くん(13歳)。
「地震がおさまったら校庭に行きました。すると、大津波警報が鳴った。津波は見なかったが、友達が言うには『海が広がっているみたいだ』と。でも、ここは高台にあるので、ここまでは来ないだろうなと思った」
その後、体育館へ来た。家族は無事だった。「兄ちゃんは東京にいて、お父さん山形にいるので、岩手県にいない。お母さんは、働いているところのスタッフの車で逃げたので無事だった。助かってよかった」
避難生活での大変さについては「トイレが和式なのと、飲み物が足りない。お菓子があるとうれしい。昼間はテニスができるのでストレス解消にはなる」と話していた。
代表の中井さんが心配していることがある。家族を亡くした人が多い中で、心のケアをどうするのか。
「心のケアについては、今は、ボランティアスタッフが来てくれている。しかし家族全員亡くし、ひとりぼっちになってしまったという人もいる。相当数が家族を亡くしている。ここにいて、みんなでわいわいしている時はいい。でも、ひとりぼっち、家族単位になった時に、どのような精神状態になるのか……すごく心配です」
阪神淡路大震災でも指摘されていたことだが、避難所生活の時よりも仮設住宅に移ったときに、そうした人は孤立してしまうのではないか。中井さんはそれを心配している。心配事はそれだけではない。
「全国からの支援がなければ生活ができない。本当にありがたい。いまは報道(取材)も来ている。しかし長くなれば、報道も冷えてくる。そのときはどうするのか」
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