私を奈落の底に落とした、スキャンダルとは中田宏「政治家の殺し方」(1)(1/2 ページ)

» 2011年12月20日 11時30分 公開
[中田宏,Business Media 誠]

政治家の殺し方:

この連載は書籍『政治家の殺し方』(幻冬舎)から抜粋、再編集したものです。

前横浜市長の中田宏氏は「女性スキャンダルまみれ」で「ハレンチ市長」と命名された。悩み苦しんで白髪頭となり、死を考えたこともあった。今だからこそ語れる、地方政治のダークな実態とは。

中田宏氏のプロフィール

昭和39(1964)年9月20日生まれ。会社員の父親の転勤に伴い小学生から高校生の間は横浜、福岡、大阪、茅ケ崎、横浜と移り住む。身長184センチ、体重75キロ。趣味は読書とフィットネスジムでのトレーニング。座右の書は「路傍の石」(山本有三)、座右の銘は「先憂後楽」。血液型、性格共にA型。


私を奈落の底に突き落とした数々のスキャンダル

 私が横浜市長に就任したのは2002年、37歳のときだ。衆議院議員を連続3期務めた後、4期目を目指す現職の高秀秀信氏と選挙戦を戦い、財政再建を全面に押し出した私が当選した。いまとなっては悪い冗談のようにしか聞こえないかもしれないが、当時は「若さとクリーンさを掲げて初当選」と新聞やテレビなどで報じられ、史上最年少(当時)の政令指定都市の市長としてマスコミにもてはやされた。

 私の経歴はといえば、中学生のときは野球部、高校では空手道部と、勉強より運動の方に精を出していた。新聞配達をしながら2浪の末、青山学院大学に入学。卒業後は松下政経塾に入塾してゴミ問題に取り組み、1993年に28歳で衆議院議員に初当選した。こうした私の経歴をマスコミは「成功者」として扱った。

 2006年4月の市長2期目の当選後にはベストジーニスト賞、2007年の父の日にはベストファーザー賞をいただいた。しかし、その数カ月後には『週刊現代』(講談社)の一連のスキャンダル記事が始まるのだから、何とも皮肉な受賞だったといえる。受賞を決定した日本ファーザーズ・デイ委員会の方々はさぞや困惑したことだろう。

 マスコミの私への攻撃は、2007年11月10日号の『週刊現代』の記事「中田宏横浜市長『“私の中に指入れ”合コン』と『口封じ恫喝肉声テープ』」から始まった。そして、翌週の11月17日号には「“ワイセツ合コン 横浜市長”中田宏氏の『公金横領疑惑』と『黒い人脈』」、12月1日号には「中田宏横浜市長は海外視察をサボってキャバクラで『ホステスおさわり』」、12月8日号には「“憤死” 横浜・高秀秀信前市長の未亡人美智子さんが激白『夫は中田宏に殺された』」と続く。さらに、連載最終となる12月22・29日号では「中田宏横浜市長『消えた選挙資金1000万円』と『税金ネコババ』疑惑、市民団体が刑事告訴へ」という記事が掲載された。

 翌年の12月20日号では「中田宏横浜市長との不倫、卑劣な素顔」、12月27日・1月3日号「私は中田宏横浜市長を訴えます」というおまけまで出た。いやはや、これらの“罪状”が事実ならば、私は今ごろ高い塀の内側で自由がきかない生活をしているに違いない。

 私への疑惑を要約すると、合コンでのハレンチ行為、公金横領、海外視察のサボり、前市長への裏切り、不倫騒動、飲酒運転、税金ネコババと続く。よくもまあ、これだけインチキ記事をねつ造できたものである。どれも裏づけ取材のない、いい加減な内容だ。私の周辺から意図的に流された噂話を事実であるかのように書きつらねている。

 これらの記事の真偽の程については後述するが、私と敵対するグループによるいやがらせだということは、民事訴訟の判決でもはっきり認定されている。「政治家を殺すのに刃物はいらない。スキャンダルをでっち上げればいい」というやり方だ。

 自分を完璧な人間、清廉潔白な政治家だと豪語する気はさらさらないが、人間として最低限のルールは守っているつもりだ。また、政治家としてその職権を利用して不正を働いたことなど、ただの一度もない。褒められたものではない行為や振る舞いが皆無だと言うつもりはないが、記事にあるような行為は一切やっていない。

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